普段は1日の中で宿場が切り替わる時に何分か休憩しているんだけど、今回は切れ目がないのでキモチ悪い。せわしなく万歩計とGPSの数字をチェック。ふぅ。
12:10 こんな所に標柱が!
史蹟一里塚の標石
気持ちを新たに、11:55北本駅のロータリーをスタート。
古中山道は東間踏切を渡り、線路沿いの小径を進む。一里塚があるはずなんだけど、何も目印がない…。丁字路を探検しても見当たらない。線路沿いに戻って途方に暮れていると、道端に棒が立っているのを発見! 近寄ってみると一里塚の標柱で、やっと見つかった。\(^-^)/ ふぅ。
志村一里塚@板橋宿以来、久しぶりに“跡”の付かない
原馬室(はらまむろ)一里塚。左側(西側)の塚しか残っていないけど県指定史跡で、塚の上には木の代わりに?祠と「史跡一里塚」と刻まれた標石が建っている。右側(東側)の塚は明治16年(
1883)高崎線(開業時は日本鉄道)敷設の際に取り壊された。
東間踏切まで引き返して中山道に出ると
浅間(せんげん)神社。浅間神社ということは、ここから富士山が見えるんだね。しかも、当社は社殿が
富士塚の上に建ってるので素晴らしい! しかし、塚に上ってお参りしたけど、残念ながら富士山は見えなかった。まぁ、この季節だと横浜の自宅からでも見えないので仕方ないかも。しかし、気になることが1つ。古中山道に一里塚があるのに、新中山道に一里塚はない。この富士塚が一里塚の代わりだったりして?
12:20 浅間神社 富士塚の上にデ〜ンと鎮座
しばらく何もない…。何もないといっても、沿道には郊外店が建ち並んでいるので、つくづく車社会なんだと感じるね〜。歩いている人はあまり見かけず、歩道ですれ違うのは自転車ばかり。
12:35 昼食の第2候補だった人気店
「ニンニク入れましょう」ってな黄色い看板。ラーメン屋:ドン-キタモト茶屋の看板で、このノリは好きだな〜♥ 人気店のようで4人も並んでいる。当店は昼食の第2候補だったけど、第1候補のある鴻巣宿にはランチタイムに間に合いそうなので、先を進む。
鴻巣市となり、
川越道の
追分深井二丁目交差点に
鴻巣宿加宿上谷新田碑。いよいよ鴻巣宿。街路灯にはデッカく「雛」と書かれたペナントが並んでいる。しばらくすると左手に雛人形の
広田屋。右手に節句人形の
太刀屋。女の子の人形と男の子の人形の専門店が向かい合っているので面白い。広田屋は昭和の創業で新しいけど、太刀屋は天保5年(
1834)の創業。仮に合併したら最強の人形店になると思うけど、このまま向かい合って、それぞれ末永く繁盛してほしいね〜。
12:50 雛人形の広田屋
節句人形の太刀屋
雛屋歴史資料館に入ろうとしたら入口が閉まっている。入口の向かいが鴻巣市観光協会なので尋ねると、資料館は耐震強度に問題があって、リニューアル工事のためにしばらく休業するそうだ…ガクッ。
是よりこうのす宿碑を横目に…ってことは、碑の建っている場所が木戸跡なのかな? う〜む、と考えているうちに
勝願寺。関東十八檀林の1つだけあって?
仁王門が立派。仁王さまはマンガチックなんだけどね〜。屋根には三つ葉葵の紋。鴻巣には御殿があり、
徳川家康が度々訪れていたそうだ。
13:10 勝願寺仁王門
信州ゆかりの人々の墓が!
境内に入ると八重桜がキレイ。
本堂の横に
真田小松姫墓・真田信重&室墓が並んでいる。う〜む、何で?こんな所に真田家の墓が…どうして? そして、慶長19年(
1614)江戸からの帰国途中に鴻巣宿で没した初代小諸藩主:
仙石秀久墓も。秀久の墓は岩村田宿の
西念寺にもある。
墓地の入口には天明7年(
1787)に建立された
芭蕉忌千句塚が建ち、「けふばかり人も年よれ初時雨」と刻まれている。隣の句碑は辞世の句が詠まれているようだけど、案内板がないのでよく分からない。
芭蕉忌千句塚
伊奈忠次・忠治墓
墓地に入ると県指定史跡の
伊奈忠次・忠治墓が立派で目立っている。この父子は関東郡代の初代と3代で、新田開発や河川改修「利根川の東遷・
荒川の西遷」などの土木工事を行った。米の生産量を増やし、江戸の町を水害から守り、江戸時代初期の繁栄をもたらした“神”のような親子。父忠次は慶長15年(
1610)61歳で、次男忠治は承応2年(
1653)62歳で没した。
川幅彩うどん
13:40本町交差点の次の路地を入ると、昼食第1候補のうどん屋:
長木屋茶屋。明治24年(
1891)創業の老舗。2年前に改装したそうで、店内はピカピカ。昨年夏に誕生したばかりというご当地グルメ:
川幅彩うどん840円をいただく。この「川幅」というのは、鴻巣市と吉見町の間を流れる
荒川の川幅が、何と!約2,537mもあり、
日本一!ということでできたそうだ。しかし、ご当地グルメといってもできたばかりなので、まだ食べたことがない市民がいるかも? 喜多さんたちは丼セットを注文んでボリューム満点。
50分の昼食休憩で旧道に戻ると
鴻巣本陣跡。
小池本陣の跡で、何が建つのか?ただ今ビルを建設中。『中山道分間延絵図』では勝願寺と小池本陣の間に「御殿地」という地名がある。文禄2年(
1593)に
鴻巣御殿を建てた跡で、御殿番を勤めたのが小池本陣の祖先だ。御殿が建ち、宿場の有力者もいるので、元々
本宿にあった宿場がこの地に移ってきたんだね。
14:35 小池本陣跡
コウノトリが描かれている歩道を進むと
法要寺。長禄元年(
1457)に開創されたという古寺で、境内に
市神社(いちがみしゃ)の遺構が置かれている。
14:45 引っ越してきた旧市神社の狛犬
法要寺境内庚申塔
市神社は中山道の中央に鎮座していた神社。『中山道分間延絵図』を見ると、遍照寺(廃寺)と法要寺の間に市神社がある。
桶川宿に続いて、鴻巣宿でも道のど真ん中に神社が鎮座しているなんて! 市神社といえば市
(いち)だけど、鴻巣宿では毎月4と9のつく日:月に6回
六斎市が開かれていた。しかし、明治3年(
1870)大強風により市神社は破壊され、残された左右の
狛犬が法要寺に移された。なるほど、何で寺に狛犬がいるの?と思ったら、こんな物語があるんだね。市神社に建てられていた、寛政2年(
1790)製の市指定文化財
法要寺境内庚申塔も、狛犬と共に移されている。
14:55 鴻神社前の宿場らしい風景
15:00 鴻神社拝殿
古い商店や蔵を横目に
鴻神社。明治6年(
1873)に竹ノ森雷電社と氷川社・熊野社を合祀して、社号を
鴻三社と定めた。さらに近隣の4社を合祀して、明治40年(
1907)社号を鴻神社としている。まずはお参り。あーっ!(◎o◎) さっき桶川宿で
女郎買い地蔵を撫でてきたのに、手水舎で手を清めちゃった!(>_<) せっかくお悩みの方と握手しようと思ったのに、とんだアクシュデントだ。…。しかも、境内に
ナンジャモンジャ(ヒトツバタゴ)があるけど、花の季節なのに咲いていないのが残念。
しかし、鴻神社の前にあるバス停が「雷電社前」になっている。明治時代に合祀されてから140年近くにもなるのに、地元の方には「鴻神社前」と呼ばないこだわりがあるのかな?
神社を出ると加美交差点を左に旧道。分岐点なので写真を撮ろうとしたら、交通量が多くて5分くらいかかってしまった(涙)。その間に横断歩道を渡った喜多さんたちは、たまたま出会った江戸に向かう旅人と話をしている(汗)。撮影を終えて加美交差点を渡ると
中山道碑。碑は交差点の左側にしかないので、右側を歩いていたら気がつかないで右の道を進んじゃうかも?
15:15 中山道碑がある加美交差点
高崎線の
第三中仙道踏切を渡る。板橋宿の
踏切も大宮宿の
ガードも人偏の付いた「仲仙道」だったけど、3カ所目にしてやっと「中仙道」になった。踏切を渡ると歩道がなくなり、路側帯歩き。交通量が多いのでおっかない。
15:25 宮前追分 糠田村の河岸まで20丁余
踏切を過ぎた辺りが箕田(みだ)一里塚跡だけど、標柱も案内板もない。そして、左に延びる道が糠田河岸(ぬかたかし)への道。この道は松山道でもあるんだけど、追分なのに道標がないので寂しい。
車に気をつけながら進むと
箕田観音堂。祠だけと思っていたら、お堂は立派で境内も広い。神社ではないけど神社みたい。
15:40 箕田観音堂
15:55 箕田氷川八幡神社の箕田碑
そして、
宝持寺。新本堂建立記念碑によると、
渡辺綱が祖父(箕田源氏の祖:
源仕)・父(
源宛)の菩提を弔うために建立されたそうだ。
隣に
箕田氷川八幡神社。『中山道分間延絵図』では
綱八幡宮となっている。この地が嵯峨源氏の流れをくむ箕田源氏発祥の地で、境内にある、宝暦9年(
1759)製の
箕田碑が市指定金石文。仕・宛・綱の箕田源氏三代が活躍した平安中期はどんな風景だったのか?と、思いを馳ながら10分休憩。
氷川八幡を出発すると5分ほどで
中宿橋。車を気にしながらの路側帯歩きなので、たった5分がスゴく長い時間に感じる。さらに5分ほど歩くと
箕田追分。右に延びる道は
忍行田(おし・ぎょうだ)道で、館林にも通じる。この付近は
箕田の立場で、又の部分に
中山道碑と案内板が建っている。往時又の所にあった
地蔵堂は左手に移され、ノッポなお地蔵さまが大事にされている。
16:15 箕田追分 往時は又の所に地蔵堂がありました
苗木バス停に正徳2年(1712)製の庚申塔。字名が苗木だけど、おらは(松)並木だと狂喜して写真撮影するのにねぇ(笑)。
民家が途切れるとやっと歩道が現れてホッ。歩道が左側から右側に変わるところに
前砂村碑がポツン。何と!ここが
英泉が描いた浮世絵ポイント@鴻巣宿だって! う〜む、NHK「街道てくてく旅」で中山道を踏破した中山道のアイドル:てっしー(勅使川原郁恵)の浮世絵ポイントはまだ先だけど、せっかくなので、ここをおらの浮世絵ポイント@鴻巣宿(
TOPの画像)にする。
前砂村碑から約150mほどで
前砂一里塚跡。旧吹上町の指定文化財だけど、案内板が風化してほとんど読めない。碑を建てる予算があるなら、新しい案内板を建ててほしいな〜。
16:35 前砂一里塚跡
ところで、前砂一里塚は日本橋から13里目の一里塚だけど、ネット上では14里目という情報が多い。う〜む、1つ手前の箕田一里塚までは、ネットでも12里で同じだったのに…。調べてみると、何と!箕田一里塚と前砂一里塚の間に、もう1つ一里塚があることになっている!(◎o◎) しかし、『中山道分間延絵図』には載っていません。もっとも、分間延絵図には
大宮一里塚も↑
原馬室一里塚も載っていないけど…。(^-^;
地図上で、箕田一里塚があった第三中仙道踏切と前砂一里塚間の距離を計測すると、4.2km。1里は約3.93kmなので、この間に一里塚がもう1つ入る余地はありません。箕田一里塚と前砂一里塚の間にあったとされる謎の一里塚の詳細は、当然のことながら不明になっています。どうしてこんなことになっちゃったんだろう?
前砂交差点を右に旧道。中山道の方が本線なのに直角にねじ曲げられて、新道の方が直線で生意気。本来旧道は真っ直ぐ延びているのに不憫。ちなみに、前砂交差点の手前がてっしーの浮世絵ポイント。この付近の地名は「鴻巣市吹上富士見」。
渓斎英泉の鴻巣宿には「吹上富士遠望」とタイトルが付いているので、NHKはこの場所を浮世絵ポイントにしたんだろうね。
16:40 鴻巣市吹上富士見の前砂交差点
第四中仙道踏切を渡ってすぐ路地を入るのが旧道。電柱に「↑中山道」と手書きの案内が貼ってある。道を間違える旅人が多いのかな? 地元の方だと思うけど、ありがたいことです。二又を右に旧道。又の所に
妙徳地蔵堂。『中山道散策マップ』には「妙見地蔵堂」とあるんだけど…。県道307号に合流すると、狭いながらも歩道があるのでホッとする。
16:55 ひっそりと妙徳地蔵堂
17:00何の変哲もない吹上駅前交差点で、本日の旅は終わり。駅前でお茶したいな〜と思ったら、吹上駅は小っちゃい駅で、喫茶店やカフェはない…ガクッ。
今回の鴻巣宿を歩き終わってから、図書館で『中山道 道しるべの旅』を発見。それによると、鴻巣宿の巻で気がつかなかった道標が2基ある。さらに、別件で川越道・松山道の道標を調べていたら、『鴻巣の石造物』から新たにもう1基出てきた。1基くらいならあきらめちゃうところだけど、3基もあるので、画像がほしくて後日写真を撮りに出かけてみました。(^-^;
まず1つ目の道標。『鴻巣の石造物』記載の道標。
箕田観音堂を過ぎて、箕田小学校と宝持寺・
箕田氷川八幡神社の間の丁字路にポツン。文政5年(
1822)製の
地蔵道標で、右面に「右くまかや道/左かうのす道」、左面に「まつ山二り半/ひきへ三り半」と刻まれている。
電柱に挟まれて、↑ひっそりと佇む地蔵道標
残りの道標は2基。こちらは『中山道 道しるべの旅』『鴻巣の石造物』両方に記載されている。中宿橋を過ぎて、
箕田追分から約260mほど手前のY字路に置かれている。右の
道標は無残にも折れたままで、3分断されているらしいけど、2つしか見当たらない…。嘉永7年(
1854)製で「吉見太神」と刻まれている。左の
道標は折れてはいないけど、線が細くてほとんど読めない…。正徳6年(
1716)製で「右はくまかやみち/左よしみいわとのみち」と刻まれている。
Y字路にゴロゴロと石仏群
第三中仙道踏切から前砂村碑の手前までの県道365号と76号は、車の交通量が多い割りに歩道がなく、路側帯歩き。車を気にしすぎて、あまりキョロキョロしないで歩いていたんだな〜。どちらの道標もブロック塀の日陰で目立たない。しかし、電柱に挟まれた地蔵道標は仕方ないにしても、Y字路の石仏群に気がつかなかったのは、かなり凹む。_| ̄|◯
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