あ |
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足利義尚
あしかが よしひさ |
寛正6年〜延徳元年(1465〜1489):25歳
室町幕府第9代将軍。足利義政&日野富子の長子。
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在原業平
ありはら の なりひら |
天長2年〜元慶4年(825〜880):56歳
平安時代前期の歌人で六歌仙・三十六歌仙の一人。イケメンの歌人として『伊勢物語』の主人公となっている。
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い |
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井伊直弼
いい なおすけ |
文化12年〜万延元年(1815〜1860):46歳
江戸時代後期の大老で近江国彦根藩主。掃部頭(かもんのかみ)。開国派で、勅許を得ずに日米修好通商条約を調印、安政の大獄を断行し、尊攘派に恨まれる。
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井伊直政
いい なおまさ |
永禄4年〜慶長7年(1561〜1602):42歳
徳川家康の家臣で徳川四天王の一人。関ケ原の戦いで功を立て、近江国佐和山城主となる。関ケ原の傷が元で死去。
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石出吉胤
いしで よしたね |
天文元年〜元和4年(1532〜1618):87歳
江戸時代初期の名主。千葉氏の一族で、千住の掃部(かもん)宿を開発する。子孫が同宿の名主を代々務めた。
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伊藤博文
いとう ひろぶみ |
天保12年〜明治42年(1841〜1909):69歳
明治時代の政治家で初代内閣総理大臣(初代を含め4回就任)。旧千円札の人。周防国出身で吉田松陰の松下村塾に学び、尊王攘夷運動の志士として明治維新を迎える。
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伊奈忠次
いな ただつぐ |
天文19年〜慶長15年(1550〜1610):61歳
江戸時代初期の代官頭。37歳で徳川家康の近習(きんじゅ)となる。家康の関東移封後は、治水事業や新田開発などで活躍。江戸幕府の政治・経済基盤の拡充に重要な役割を果たす。
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伊奈忠治
いな ただはる |
文禄元年〜承応2年(1592〜1653):62歳
江戸時代前期の関東郡代。父忠次・兄忠政の死後、伊奈家の郡代職を継ぎ、利根川・江戸川・荒川などの治水事業や新田開発で業績を残す。領内に飢民のない功績を賞されている。
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今井兼平
いまい かねひら |
仁平2年〜元暦元年(1152〜1184):33歳
平安時代後期の武将で木曾四天王の一人。源義仲の乳母の子で、義仲の挙兵以来各地を転戦し、義仲と運命をともにする。
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う |
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上杉憲英
うえすぎ のりふさ |
?〜応永11年(?〜1404):?歳
南北朝・室町時代前期の武将。深谷上杉氏の祖。
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歌川広重
うたがわ ひろしげ |
寛政9年〜安政5年(1797〜1858):62歳
名作連作版画『東海道五十三次』を生んだ江戸時代後期の浮世絵師。幕府定火消同心の安藤家に生まれる。15歳で歌川豊国に入門しようとしたが満員のため断られ、代わりに歌川豊広に入門。16歳で豊広の「広」と、広重の本名・重右衛門(じゅうえもん)の「重」で、「広重」の名を与えられる。27歳で家業の火消同心を辞し、絵師を本業とする。
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宇都宮頼綱
うつのみや よりつな |
承安2年〜正元元年(1172〜1259):88歳
鎌倉時代前期の武将。北条時政の娘婿だが、隠謀の嫌疑を受け出家。蓮生と号す。小倉百人一首の産みの親。
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え |
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江川英龍
えがわ ひでたつ |
享和元年〜安政2年(1801〜1855):55歳
伊豆韮山の世襲代官。当主は太郎左衛門を称する。江川家は大和源氏の流れを汲む名家で、英龍は36代目。高島秋帆に西洋砲術を学び、品川の台場を築造。韮山反射炉の生みの親。
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お |
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応神天皇
おうじんてんのう |
?年〜?年:111歳?
仲哀天皇の第四皇子で誉田別尊(ほむたわけのみこと)。母は神功皇后。応神の系統を河内王朝と称し、王朝交替があったという説がある。後世になって八幡宮の祭神として祀られている。 |
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大海人皇子
おおあまのみこ |
天武天皇(てんむてんのう) | ||||||||||||
大河内輝貞
おおこうち てるさだ |
寛文5年〜延享4年(1665〜1747):83歳
江戸時代中期の高崎藩主で5代将軍徳川綱吉の側用人。8代将軍徳川吉宗の老中格も務める。
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太田道灌
おおた どうかん |
永享4年〜文明18年(1432〜1486):55歳
室町時代の武将で扇谷(おうぎがやつ)上杉定正の重臣。諱は資長(すけなが)。江戸城を築いた武将として有名。30回以上の合戦を戦い、めざましい活躍で扇谷上杉家の勢力を拡大させたが、主君定正に暗殺される。
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大友皇子
おおとものみこ |
弘文天皇(こうぶんてんのう) | ||||||||||||
小笠原信嶺
おがさわら のぶみね |
天文16年〜慶長3年(1547〜1598):52歳
戦国時代の武将。信濃国松尾城主から本庄城主となる。
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岡部忠澄
おかべ ただずみ |
?〜建久8年(?〜1197):?歳
鎌倉幕府初期の御家人。通称は六弥太。
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沖田総司
おきた そうじ |
天保13年〜明治元年(1842〜1868):27歳
新選組の一番隊組長。池田屋事件などで活躍する。
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小野篁
おの の たかむら |
延暦21年〜仁寿2年(802〜852):51歳
平安時代前期の公卿・歌人。『古今和歌集』に6首が入集。
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か |
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鏡女王
かがみのじょおう |
?〜天武12年(?〜683):?歳
万葉歌人。藤原鎌足の正室&藤原不比等の母。
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梶原景時
かじわら かげとき |
?〜正治2年(?〜1200):?歳
鎌倉幕府初期の御家人。源頼朝挙兵時は敵だったが、石橋山で頼朝のピンチを救い、その後頼朝に従い要職を歴任する。讒言(ざんげん)で源義経を失脚させたことは有名。しかし、頼朝の死後、讒言の行き過ぎで景時自身が失脚する。
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上総広常
かずさ ひろつね |
?〜寿永2年(?〜1183):?歳
平安時代末期の豪族的武士。通称は上総介(かずさのすけ)。
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和宮
かずのみや |
親子内親王(ちかこないしんのう) | ||||||||||||
片岡庄兵衛
かたおか しょうべえ |
?年〜?年:?歳
大津算盤の始祖。中国式算盤を改良して大ヒットさせる。
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金沢貞顕
かねざわ さだあき |
弘安元年〜元弘3年(1278〜1333):56歳
金沢顕時の三男で鎌倉幕府第15代執権。幕府の要職を歴任し、金沢北条氏の最盛期を築く。
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金沢実時
かねざわ さねとき |
元仁元年〜建治2年(1224〜1276):53歳
鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府の要職を務め、幕府の中枢である評定衆にも加わっているが、ホントは学問が好き。
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河合曾良
かわい そら |
慶安2年〜宝永7年(1649〜1710):62歳
江戸時代中期の俳人。信濃国上諏訪出身で、本名は岩波正字(まさたか)。37歳頃松尾芭蕉に入門する。芭蕉十哲の一人。
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鑑真
がんじん |
嗣聖5年〜天平宝字7年(688〜763):76歳
唐の高僧で日本律宗の開祖。日本への渡航を懇願されたものの、渡航は5回失敗。失明を乗り越え、6度目の渡航で来日。
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桓武天皇
かんむてんのう |
天平9年〜大同元年(737〜806):70歳
平安時代最初の天皇。長岡京・平安京の造営、蝦夷(えみし)討伐などで民が疲弊したが、平安な時代の基礎を築く。
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き |
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北政所
きたのまんどころ |
高台院(こうだいいん) | ||||||||||||||||
行基
ぎょうき |
天智7年〜天平勝宝元年(668〜749):82歳
奈良時代の僧。河内国(後の和泉国)大鳥郡蜂田郷の生まれ。布教と共に治水・架橋や布施屋設置などの社会事業を展開する。初めは朝廷から弾圧されるが、76歳で東大寺大仏造営の勧進に起用され、78歳で初代大僧正に任命される。
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く |
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空海
くうかい |
宝亀5年〜承和2年(774〜835):62歳
言わずと知れた、弘法大師&真言宗の開祖。讃岐国多度郡屏風浦の生まれ。嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆の一人。31歳で遣唐使の留学僧として入唐。43歳で嵯峨天皇から高野山が下賜され、総本山金剛峯寺を創建する。
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熊谷直実
くまがい なおざね |
永治元年〜承元2年(1141〜1208):68歳
鎌倉幕府初期の御家人。一ノ谷の戦いで平敦盛を討ったことは有名。養父久下直光と所領争いとなり、訴訟対決中に出家する。53歳で法然に帰依し、蓮生(れんせい)と号する。
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け |
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渓斎英泉
けいさい えいせん |
寛政2年〜嘉永元年(1790〜1848):59歳
江戸時代後期の浮世絵師。美人画を得意とする。名所絵にも定評があり、『木曽海道六十九次』を手がけたが、途中で放棄して、歌川広重に引き継がれる。晩年は文筆業に専念する。
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こ |
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孝謙天皇
こうけんてんのう |
養老2年〜 神護景雲4年(718〜770):53歳
聖武天皇と光明皇后の第一皇女で阿倍内親王。僧道鏡を寵愛した。淳仁天皇に譲位した後、重祚して称徳天皇となる。
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高台院
こうだいいん |
天文18年〜 寛永元年(1549〜1624):76歳
豊臣秀吉の正室で北政所(きたのまんどころ)。幼名はねね(おね)。秀吉の死後は高台院と称し、京都東山に高台寺を建立。
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弘文天皇
こうぶんてんのう |
大化4年〜天武元年(648〜672):25歳
天智天皇の長子で大友皇子。壬申の乱で叔父の大海人皇子と王位をめぐって争うが敗死。天智の死後に即位したのかは不明だが、明治天皇によって「弘文天皇」と追号された。
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弘法大師 こうぼうだいし |
空海(くうかい) | ||||||||
光明皇后
こうみょうこうごう |
大宝元年〜天平宝字4年(701〜760):60歳
藤原不比等の三女で安宿媛(あすかべひめ)。聖武天皇皇后。夫聖武と共に仏教に篤く帰依し、天平文化の発展に寄与する。
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後白河天皇
ごしらかわてんのう |
大治2年〜建久3年(1127〜1192):66歳
鳥羽天皇の第四皇子。即位3年で子の二条天皇に譲位し、院政を行う。武士の時代が始まり、平清盛・源義仲・源頼朝を相手に、朝廷の権威の安定に努める。
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小林一茶
こばやし いっさ |
宝暦13年〜文政10年(1763〜1827):65歳
江戸時代後期の俳人。信濃国柏原出身で、本名は信之。3歳で実母と死別。15歳で江戸へ奉公に出され、39歳で父が病死し、継母と遺産相続で争った苦労人。51歳で郷里に定住。
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小林清次郎
こばやし せいじろう |
寛政11年〜明治14年(1799〜1881):83歳
幕末の治水家。水不足の海道新田村に用水路を開削した。
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近藤勇
こんどう いさみ |
天保5年〜慶応4年(1834〜1868):35歳
幕末の幕臣。武蔵国多摩郡石原村の農家の生まれ。近藤家の養子となり、天然理心流4代目を襲名。30歳で幕府が募集した浪士組に参加して京に上り、新選組を組織して局長となる。
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さ |
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西行
さいぎょう |
元永元年〜文治6年(1118〜1190):73歳
歌集『山家集』を生んだ平安時代後期の僧侶・歌人、そして旅人。藤原秀郷の子孫として生まれ、俗名は佐藤義清(のりきよ)。生涯に2回旅した陸奥国の藤原秀衡とは遠縁にあたる。鳥羽上皇の「北面の武士」の職を辞し、23歳で出家。高野山を拠点に奥州や中国・四国などを旅する。
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嵯峨天皇
さがてんのう |
延暦5年〜承和9年(786〜842):57歳
桓武天皇の第二皇子。治世中は太平が続き、宮廷文化(弘仁文化)が花開く。空海・橘逸勢と共に、三筆の1人。
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坂上田村麻呂
さかのうえ の
たむらまろ |
天平宝字2年〜弘仁2年(758〜811):54歳
平安時代初期の武将で第2代征夷大将軍。光仁朝以来の悲願であった“まつろわぬ”蝦夷(えみし)を討伐し平定する。戦功によって昇進を重ね、征夷大将軍をはじめ、53歳で大納言となる。古代のヒーローとして数多くの伝説を持つ。
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佐佐木信綱
ささき のぶつな |
明治5年〜昭和38年(1872〜1963):91歳
三重県出身の歌人&国文学者。唱歌「夏は来ぬ」を作詞。
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薩摩義士
さつまぎし |
リーダー:薩摩藩家老 平田靱負(ひらた ゆきえ) 宝永元年〜宝暦5年(1704〜1755):52歳
薩摩藩が江戸幕府に木曽三川の「御手伝普請」を命じられ、1年半に及ぶ難工事の末に完成。「宝暦治水」と呼ばれる。病気や事故、幕府への抗議の切腹などで80名以上の藩士が犠牲となる。周辺地域では「薩摩義士」として祀られている。
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早良親王
さわらしんのう |
天平勝宝2年〜延暦4年(750〜785):36歳
桓武天皇の同母弟。桓武の即位に伴い皇太子となる。しかし、無実の罪?で捕らえられ憤死。その後怨霊となった。
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三ノ宮卯之助
さんのみや うのすけ |
文化4年〜嘉永7年(1807〜1854):48歳
江戸時代後期の力持ち。各地で興行を行う。
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し |
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シーボルト
Philipp Franz von
Siebold |
1796年〜1866年(寛政8〜慶応2):70歳
ドイツの医学者&植物学者。長崎で蘭学を教えた。
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施基皇子
しきのみこ |
?〜霊亀2年(?〜716):?歳
天智天皇の第七皇子。万葉歌人として6首の歌を残す。
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十返舎一九
じっぺんしゃ いっく |
明和2年〜天保2年(1765〜1831):67歳
滑稽本『東海道中膝栗毛』を生んだ江戸時代後期の戯作(げさく)者。駿河国府中の同心重田家に生まれ、本名は貞一。町奉行の転勤に従った大坂で浄瑠璃の修行をした後、奉行所勤めを辞し、江戸の版元「蔦屋」の食客となる。弥次喜多の道中記『浮世(東海)道中膝栗毛』が大ヒットとなり、約20年間も『膝栗毛』シリーズを書き続ける。
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持統天皇
じとうてんのう |
大化元年〜大宝2年(645〜702):58歳
天智天皇の第二皇女&叔父である天武天皇の皇后。天武即位後は中央集権体制の推進を助け、天武死後は孫の文武天皇に譲位するため自ら即位して天皇となる。
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渋沢栄一
しぶさわ えいいち |
天保11年〜昭和6年(1840〜1931):91歳
明治・大正期の実業家。第一国立銀行・王子製紙など、500もの企業設立に携わり、“日本資本主義の父”と呼ばれる。没後93年の令和6年(2024)から1万円札の顔となる。
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聖武天皇
しょうむてんのう |
大宝元年〜天平勝宝8歳(701〜756):56歳
文武天皇の第一皇子で首(おびと)皇子。母は藤原不比等の娘・宮子で、皇后も不比等の娘・安宿媛(あすかべひめ)。天災・疫病が続いたり、藤原氏台頭に頭を痛めたのか?仏教に篤く帰依する。
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称徳天皇
しょうとくてんのう |
孝謙天皇(こうけんてんのう) | ||||||||||||||||
白河天皇 しらかわてんのう |
天喜元年〜大治4年(1053〜1129):77歳
平安時代後期の天皇。譲位後も政権を握る「院政」を創設。
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親鸞
しんらん |
承安3年〜弘長2年(1173〜1262):90歳
鎌倉時代初期の僧&浄土真宗の開祖。山城国宇治郡の日野に生まれ、日本仏教史上初めて僧として妻子を持つ。比叡山で修行後、29歳で浄土宗の法然に入門。大ブレイクした念仏は弾圧され、越後国に流罪となる。流罪後は約20年ほど関東で布教活動を行う。60歳を過ぎてから帰京し、著作活動に励む。
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す |
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菅原道真
すがわら の みちざね |
承和12年〜延喜3年(845〜903):59歳
平安時代前期の学者&政治家。幼少の頃から優秀で、55歳で右大臣となったが、讒言により太宰府へ左遷。死後は祟りのために天満天神として祀られたが、今は学問の神さま。
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崇道天皇
すどうてんのう |
早良親王(さわらしんのう) | ||||||||
角倉了以
すみのくら りょうい |
天文23年〜慶長19年(1554〜1614):61歳
近世初頭の豪商で、朱印船貿易&河川土木事業で繁栄した。
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せ |
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蝉丸
せみまる |
?年〜?年:?歳
平安時代の伝説的歌人&盲目の琵琶奏者。逢坂山に暮らす。
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仙石秀久
せんごく ひでひさ |
天文20年〜慶長19年(1551〜1614):64歳
戦国時代の武将。豊臣秀吉・徳川家康に仕え、40歳で小諸城主となる。勇猛果敢で石川五右衛門生け捕り伝説がある。
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そ |
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宗長
そうちょう |
文安5年〜享禄5年(1448〜1532):85歳
室町・戦国時代の連歌師。『武士(もののふ)の矢橋(やばせ)の舟は速くとも急がば回れ瀬田の唐橋』を詠む。
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た |
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醍醐天皇
だいごてんのう |
仁和元年〜延長8年(885〜930):46歳
平安時代前期の天皇。菅原道真を左遷した天皇だが、律令制の維持を図り親政を行ったので、「延喜の治」と称えられた。
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泰澄
たいちょう |
白鳳11年?〜神護景雲元年(682?〜767):86歳?
越知(おち)山・白山を開山した山岳信仰の祖。越前国麻生津(あそうづ=福井市浅水町)に生まれ、越知山で入寂する。
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平清宗
たいら の きよむね |
嘉応2年〜文治元年(1170〜1185):16歳
平宗盛の長男&清盛の孫。壇ノ浦の戦いで敗れ、源義経によって鎌倉へ護送された後、義経の郎党に斬首される。
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平将門
たいら の まさかど |
?〜天慶3年(?〜940):?歳
平安時代中期の武将。一族間の争いをきっかけに、自らを新皇と称して関東の独立を図ったが、朝敵として討たれる。国家の悪政に反抗したヒーローとして、霊魂伝説が生まれる。
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高島秋帆
たかしま しゅうはん |
寛政10年〜慶応2年(1798〜1866):69歳
江戸時代後期の砲術家。長崎港の防備をした関係で、オランダ人より西洋砲術を学ぶ。幕府の軍事の近代化に寄与した。
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滝川一益
たきがわ かずます |
大永5年〜天正14年(1525〜1586):62歳
安土桃山時代の武将で織田四天王の一人。織田信長に仕えて戦功を上げたが、信長死後は後継者争いにも敗れて散々。
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武田信玄
たけだ しんげん |
大永元年〜天正元年(1521〜1573):53歳
言わずと知れた、甲斐武田家第19代当主。諱は晴信。39歳で出家して「信玄」と号する。「風林火山」の旗印の下、上杉謙信と5回にわたる川中島の戦いをはじめ、戦い続けて領国を拡大。上洛の途中で病死。
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辰野金吾
たつの きんご |
嘉永7年〜大正8年(1854〜1919):66歳
日本近代建築の父。工部大学校(現東京大学工学部)でコンドルに師事。明治〜大正の建築界に指導的役割を果たす。
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伊達政宗
だて まさむね |
永禄10年〜寛永13年(1567〜1636):70歳
安土桃山・江戸時代前期の武将&仙台藩の藩祖。18歳で出羽米沢城主の家督を継ぎ、37歳で居城を仙台に移して仙台藩62万石の基礎を築く。南蛮との通商を企画し、家臣支倉常長をローマに派遣したことは有名(慶長遣欧使節)。幼少時に天然痘により右眼を失明し、独眼竜と称された。
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ち |
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親子内親王
ちかこないしんのう |
弘化3年〜明治10年(1846〜1877):32歳
仁孝天皇の第八皇女で孝明天皇の異母妹。江戸幕府第14代将軍徳川家茂(いえもち)の正室。公武合体のため降嫁し、中山道を下向した。名前は幼称の「和宮」の方が有名。
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て |
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天智天皇
てんぢてんのう |
推古34年〜天智10年(626〜671):46歳
舒明天皇の第二皇子で中大兄(なかのおおえ)皇子。母は皇極(斉明)天皇で、天武天皇(大海人皇子)の同母兄とされる。大化の改新の中心人物で、改新の詔を発表。駅馬・伝馬を定める。百済復興を図った白村江の敗戦後、大津に遷都する。
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天武天皇
てんむてんのう |
舒明3年?〜朱鳥元年(631?〜686):56歳?
舒明天皇の第三皇子で大海人(おおあま)皇子。母は皇極(斉明)天皇で、天智天皇の同母弟。しかし、天武天皇の誕生年が『日本書紀』に記載されていないため、正確な年齢は不明。1カ月に及ぶ壬申の乱で、日本史上まれな王位(皇位)簒奪を行う。即位後は中央集権的な律令国家の確立を目指す。
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と |
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常盤御前
ときわごぜん |
?年〜?年:?歳
河内源氏の棟梁源義朝の愛妾&義経(牛若)の母。平治の乱で夫義朝の死後捕らえられ、平清盛の愛妾となる。
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徳川家光
とくがわ いえみつ |
慶長9年〜慶安4年(1604〜1651):48歳
徳川秀忠の次男で江戸幕府第3代将軍。幼名は祖父家康と同じ竹千代。20歳で秀忠が隠居し、第3代将軍となる。家康を崇拝し、生涯10回の日光社参を行う。東照宮の造営も諸大名の献納を受けず、幕府の支出だけで行った。死後も家康に仕えるため、遺言により日光山輪王寺に埋葬される。
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徳川家康
とくがわ いえやす |
天文11年〜元和2年(1542〜1616):75歳
言わずと知れた、江戸幕府初代将軍&東照大権現。三河国岡崎城主松平広忠の長男で幼名は竹千代。3歳で母と生き別れとなり、6歳で今川氏に人質として送られる途中で奪われて織田氏へ送られたり、その後今川氏に送られて桶狭間の戦いまで駿府で過ごしたり、幼少期から波瀾万丈。19歳で岡崎城に戻って三河国支配の回復に務め、着々と勢力を拡大する。49歳で豊臣秀吉より関東への転封を命じられ、豊臣政権下で最大の大名となる。秀吉の死後、関ヶ原の戦いに勝利して天下人となる。 駿府城で死去。遺言により駿河国の久能山に葬られ、一周忌を経て下野国の日光山に改葬された。死後も神(東照大権現)となり、“関八州の鎮守”として江戸(東京)を見守っている。
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徳川忠長
とくがわ ただなが |
慶長11年〜寛永10年(1606〜1633):28歳
徳川2代将軍秀忠の三男&3代将軍家光の弟。駿河大納言。
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巴御前
ともえごぜん |
?年〜?年:?歳
平安時代後期の武将で源義仲の愛妾&今井兼平の妹。義仲没後は和田義盛の妻となり、朝比奈義秀を産んだとされる。
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豊臣秀吉
とよとみ の ひでよし |
天文6年〜慶長3年(1537〜1598):62歳
言わずと知れた、太閤殿下。織田信長に仕え、草履取りの“猿”から身分制度を乗り越え大出世。37歳で長浜城主となる。本能寺の変で信長の死後、最大のライバル徳川家康を従え、みごと天下人となる。
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豊臣秀頼
とよとみ の ひでより |
文禄2年〜元和元年(1593〜1615):23歳
豊臣秀吉&淀殿の次男。関ケ原の戦い後に65万石の大名となる。大坂夏の陣で自害し、豊臣氏が滅亡する。
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な |
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永谷義弘
ながたに よしひろ |
天和元年〜安永7年(1681〜1778):98歳
宇治製煎茶の創始者。宇治茶を諸国に広めた。
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長屋王
ながやおう |
天武13年〜天平元年(684〜729):46歳
奈良時代の皇親の政治家で天武天皇の孫。藤原氏と対立。
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名倉直賢
なぐら なおかた |
寛延3年〜文政10年(1750〜1827):78歳
江戸時代後期の接骨医。武術柔術を学び接骨術を習得した。
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に |
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新島襄
にいじま じょう |
天保14年〜明治23年(1843〜1890):48歳
明治時代の宗教家&教育家。18歳で米国に密航し、理学・神学を学ぶ。宣教師として帰国後、33歳で京都に同志社英学校(のちの同志社大学)を創設する。
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ニコライ
Nicholai Aleksandrovich
Romanov |
1868年〜1918年(明治1〜大正7):50歳
ロシア帝国最後の皇帝でニコライ2世。皇太子時代に来日。
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新田義貞
にった よしさだ |
正安3年?〜延元3年[暦応元年](1301?〜1338):38歳?
鎌倉・南北朝時代の武将。上野国新田荘出身。33歳で挙兵。鎌倉道上道(かみつみち)を駆け抜け、鎌倉幕府を滅ぼした。その後は南朝方の侍大将として、転戦に次ぐ転戦の生涯。
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仁徳天皇
にんとくてんのう |
?年〜?年:83歳?
応神天皇の第四皇子で大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)。『古事記』では大雀命。民家から炊飯の煙が立ち上らないのを見て、3年間の課役を免じたので「聖帝」と呼ばれる。嫉妬深い皇后に悩む人間臭い天皇。 |
は |
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畑時能
はた ときよし |
?〜興国2年[暦応4年](?〜1341):?歳
南北朝時代の武将。新田義貞の側近で、新田四天王の一人。
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服部半蔵
はっとり はんぞう |
服部正成(はっとり まさなり) | ||||
服部正成
はっとり まさなり |
天文11年〜慶長元年(1542〜1596):55歳
服部半蔵。41歳の時に本能寺の変が起き、主君の徳川家康を堺から伊賀越えで三河に帰還させる。「半蔵」は服部家の歴代当主を指す通称だが、半蔵といえば2代目の正成のことを指す。 |
ふ |
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普寛
ふかん |
享保16年〜享和元年(1731〜1801):71歳
江戸時代中期の修験者。木曽御岳講の祖。
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藤原秀郷
ふじわら の ひでさと |
?年〜?年:?歳
平安時代中期の武人で俵藤太と号する。下野国の土豪だったが、平将門の乱を平定した功績により、下野守に任命される。その豪勇ぶりによって、中世ではヒーローとなり、百足退治伝説が生まれる。
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藤原不比等
ふじわら の ふひと |
斉明5年〜養老4年(659〜720):62歳
奈良時代の政治家で藤原鎌足の次男。持統天皇以後の信任が厚く、皇室と姻戚関係を結んで、藤原氏繁栄の基礎を築く。
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ブルーノ・タウト
Bruno Julius Florian
Taut |
1880年〜1938年(明治13〜昭和13):58歳
ドイツの建築家。ナチスに追われ、日本に亡命する。
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ほ |
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北条氏綱
ほうじょう うじつな |
長享元年〜天文10年(1487〜1541):55歳
戦国時代の武将で北条早雲の嫡男。氏を伊勢から北条に改め、相模・武蔵を支配して後北条氏を戦国大名に成長させた。
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北条氏康
ほうじょう うじやす |
永正12年〜元亀2年(1515〜1571):57歳
北条氏綱の嫡男で相模国小田原城主。扇谷上杉氏を滅ぼし、甲斐の武田信玄・駿河の今川義元と三国同盟を結び、関東統治を安定させる。民政も充実し、後北条氏の全盛期を築く。
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北条政子
ほうじょう まさこ |
保元2年〜嘉禄元年(1157〜1225):69歳
北条時政の長女で鎌倉幕府初代将軍源頼朝の正妻。父時政の反対を押し切り、深夜豪雨の中を伊豆山権現で待つ頼朝の元に走った、という逸話は有名。頼朝死後は尼将軍と呼ばれ、幕府の実権を将軍から北条氏による執権政治の確立に尽力する。
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北条泰時
ほうじょう やすとき |
寿永2年〜仁治3年(1183〜1242):60歳
北条義時の嫡子で鎌倉幕府第3代執権。承久の乱で朝廷に勝利し、初代六波羅探題北方に就任。義時の死後に執権職を継いで、最初の武家法典である御成敗式目(貞永式目)を制定。
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誉田別尊
ほむたわけのみこと |
応神天皇(おうじんてんのう) |
み |
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三井高利
みつい たかとし |
元和8年〜元禄7年(1622〜1694):73歳
江戸時代前期の豪商で三井家事業の創業者。江戸に呉服店、京に仕入店を持つ兄の元で14歳より働き、商才を発揮した。生涯を通じて秀でた商才と、たゆまぬ努力で成功した人物。
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源実朝
みなもと の さねとも |
建久3年〜建保7年(1192〜1219):28歳
源頼朝&北条政子の次男で鎌倉幕府第3代将軍。兄頼家が伊豆に幽閉されたため、12歳で将軍職を継ぐ。しかし、実権は母政子をはじめ北条氏が握っているため、和歌に心を傾ける。
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源範頼
みなもと の のりより |
?〜建久4年(?〜1193):?歳
源義朝の六男で頼朝の異母弟&義経の異母兄。母は池田宿(磐田市)の遊女。遠江(とおとうみ)国蒲御厨(かばのみくりや=浜松市)生まれなので蒲冠者(かばのかじゃ)と呼ばれる。伊豆で挙兵した頼朝に呼応し参戦。合戦後、頼朝に謀反の嫌疑をかけられ、伊豆修善寺に幽閉される。その後自害。 |
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源義家
みなもと の よしいえ |
長暦3年〜嘉承元年(1039〜1106):68歳
平安時代後期の武将&頼義の長子。石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)で元服したので八幡太郎と称する。後三年の役の鎮圧後は私財をもって将士に報い、東国武士の信望を集めた。
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源義経
みなもと の よしつね |
平治元年〜文治5年(1159〜1189):31歳
源義朝の九男で頼朝の異母弟。母は常盤御前。幼名は牛若丸で、九郎判官とも呼ばれる。幼少時に鞍馬寺に預けられるが、後に奥州平泉へ下り、藤原秀衡の庇護を受ける。伊豆で挙兵した頼朝に呼応し参戦。平家を滅ぼし功績を挙げたが頼朝と不和となり、奥州平泉で最期を遂げる。悲劇のヒーローとして各地に義経伝説が生まれた。
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源義朝
みなもと の よしとも |
保安4年〜永暦元年(1123〜1160):38歳
河内源氏の棟梁で、頼朝・範頼・義経の父。鎌倉を本拠として南関東の武士団を統合する。保元の乱で戦功を挙げ左馬頭に昇進したが、平治の乱で敗死する。
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源義仲
みなもと の よしなか |
久寿元年〜寿永3年(1154〜1184):31歳
平安時代後期の武将で、「木曾義仲」とも呼ばれる。頼朝の従兄弟。以仁王(もちひとおう)が発した平氏打倒の令旨を受け、頼朝より先に入京を果たす。しかし義仲の政治性は低く、京の治安悪化もあり孤立した。頼朝の命を受けた範頼・義経軍に討たれる。
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源頼朝
みなもと の よりとも |
久安3年〜正治元年(1147〜1199):53歳
言わずと知れた、イイクニ作ろう鎌倉幕府。河内源氏の棟梁源義朝の三男で、母は熱田神宮の大宮司藤原季範の娘。母の身分が低い長兄義平・次兄朝長と違い、12歳で皇后宮少進就任、13歳で上西門院蔵人、さらに二条天皇の蔵人に就任するなど、華やかな少年時代を送る。平治の乱では源家の嫡男として初陣を飾ったが、平清盛に敗れ父&兄2人を失う。 平家に捕らえられ、斬罪になるところ、清盛の義母池禅尼が早世した子平家盛に頼朝が似ているからと助命嘆願。奇跡的に命を助けられる。14歳で伊豆配流。約20年に及ぶ流人生活の後、以仁王(もちひとおう)が発した平氏打倒の令旨を受け、挙兵。源家ゆかりの地である鎌倉で武家政権を開く。
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源頼政
みなもと の よりまさ |
長治元年〜治承4年(1104〜1180):77歳
平安時代後期の武将&歌人。75歳で源氏としては異例の昇進で従三位に叙せられ、源三位(げんざんみ)と称された。
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源頼義
みなもと の よりよし |
永延2年〜承保2年(988〜1075):88歳
平安時代後期の武将&河内源氏の2代目。相模守・武蔵守・下野守を歴任し、東国に源氏の基盤を築いた。
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宮沢賢治
みやざわ けんじ |
明治29年〜昭和8年(1896〜1933):38歳
近代日本の詩人&童話作家。雨ニモマケズ、風ニモマケズ。
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め |
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明治天皇
めいじてんのう |
嘉永5年〜明治45年(1852〜1912):61歳
孝明天皇の第二皇子で睦仁(むつひと)親王。15歳で孝明天皇が崩御したため、翌年践祚(せんそ)して16歳で天皇となる。近代日本国家の君主としてカリスマ的な存在で、行幸した各地に数多くの記念碑が建立されている。
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や |
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八百屋お七
やおやおしち |
寛文8年〜天和3年(1668〜1683):16歳
江戸時代前期の女性で、恋心から放火した悲恋物語のヒロイン。井原西鶴の『好色五人女』で上演されて大ヒット。
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山崎碩茂
やまざき せきも |
明和元年〜文政9年(1764〜1826):63歳
中山道上尾宿の旅籠屋4代目。上尾宿に学校を開設する。
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山田いち
やまだ いち |
文久3年〜昭和13年(1863〜1938):76歳
農家の主婦。サツマイモ「八ツ房」の畑から新品種を発見。
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日本武尊
やまとたけるのみこと |
記紀に登場する架空の人物で、モデルは4世紀頃の人らしい。
景行天皇の第三皇子で小碓命(おうすのみこと)。またの名を日本童男(やまとおぐな)。『日本書紀』では「日本武尊」と表記されるが、『古事記』では「倭建命」。景行天皇の命を受け、九州の熊曾や出雲を平定。三種の神器・草薙の剣を身につけ、古東海道を通り東国平定の旅へと向かう。伊勢国鈴鹿郡能褒野(のぼの)で30歳?の生涯を終えるが、悲劇のヒーローとして数多くの伝説を持つ。
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ゆ |
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湯浅治郎
ゆあさ じろう |
嘉永3年〜昭和7年(1850〜1932):83歳
中山道安中宿の醤油醸造業有田屋3代目。31歳で群馬県会議員となり、廃娼運動に尽力する。
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よ |
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養阿
ようあ |
?年〜宝暦13年(?〜1763):?歳
江戸時代中期の木喰僧。数多くの土木工事を行う。
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吉田松陰
よしだ しょういん |
文政13年〜安政6年(1830〜1859):30歳
幕末の勤王家・思想家・教育者。寅兄ぃ。長門国萩で松下村塾を開き、高杉晋作・伊藤博文ら維新の人材を育てる。
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淀殿
よどどの |
永禄10年?〜元和元年(1567?〜1615):49歳?
豊臣秀吉の側室で秀頼の母。浅井長政と織田信長の妹お市の方の長女で、幼名は茶々。大坂夏の陣で秀頼と共に自害する。
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れ |
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蓮如
れんにょ |
応永22年〜明応8年(1415〜1499):85歳
室町時代の僧で、浄土真宗中興の祖。43歳で本願寺8世となり、越前・近江・摂津・三河などで布教活動を展開。山科本願寺を再興し、大坂に石山本願寺の礎となる御坊を建立する。
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ろ |
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良弁
ろうべん |
持統3年〜宝亀4年(689〜773):85歳
奈良時代の僧。相模国または近江国の出身。東大寺の創建に尽力して初代別当となる。東大寺四聖(ししょう)の一人。
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わ |
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渡辺崋山
わたなべ かざん |
寛政5年〜天保12年(1793〜1841):49歳
江戸後期の画家&蘭学者。父が病身のため、家計を助けるために画業を志す。「慎機論」で幕府の対外政策を批判したため蛮社の獄に連座。蟄居中の田原で自刃する。
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「街道歩きの人名辞典」は、
『日本古代中世人名辞典』平野邦雄・瀬野精一郎編/吉川弘文館
『日本近世人名辞典』竹内誠・深井雅海編/吉川弘文館
『日本近現代人名辞典』臼井勝美・高村直助・鳥海靖・由井正臣編/吉川弘文館
コトバンク(http://kotobank.jp/)
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各地の案内板や、市町村のホームページなどを参考にして作成しました。