
14:05 うどん |
今までの昼食は近くに駅のある旧宿場で、いわば繁華街だったので食事処に困らなかったけど、今回は昼時に国道や県道から離れた場所を歩くので、食事にありつけるのか?心配でした。 しかし、沿道にうどん専門店があってホッ。 さすが北埼玉は小麦の産地だけのことはある。
六助うどん(傍示堂575)茶屋の看板に「カレーうどん」「肉うどん」と書いてあり、文字通り看板メニューのようなので、カレーうどん つけ・中盛り735円を注文。 手打ちうどんはコシがあって美味しい。 量も多くてお腹ポンポコリン♪ 喜多さんが注文んだ肉うどん・うどん定食などもボリューム満点。\(^-^)/

14:50 一里塚跡 |

55分の食事休憩で、14:50午後の部をスタート。 今日は時々小雨がパラついていたけど、雨粒が大きくなってきた。 六助うどん茶屋を出るとすぐ右カーブになるけど、この付近に
傍示堂一里塚があった。
日の出4丁目交差点でR17を横断。 しかし、歩道橋はあるものの横断歩道がない!(◎o◎) 足腰の弱いお年寄りや車椅子の人は交差点をどうやって渡るのか? R17は自動車専用道ではないのに、こんな道路行政はおかしい!(`ヘ´) 人間より車の方が馬力があるんだから、歩道橋より「車道橋」を造ってほしい〜。 しかも、何故か?歩行者用の横断歩道はないのに、自転車用の横断歩道がある。 自転車は軽車両で車の仲間なのだから、歩行者用を差し置いてまで必要ないだろう。 抗議の意を込めて、自転車の横断歩道を横断してやるぅ。(`ヘ´)←よい子は真似しないで!

14:55 庚申塔 |

日の出4丁目交差点を渡ると緩やかな上りの
御堂坂。 歩道ができた。 雨がパラついているせいなのか?人っ子一人歩いていない。 上部が欠けた
庚申塔を横目にひたすらK392の歩道歩き。 どんどん進むと、最近道路工事をしたばかりのようで、歩道や車道がキレイ。 花のような街路灯のデザインが面白い。

15:10 本庄城址 |

ケヤキ |

だんだん賑やかになってきた。 中山道交差点を過ぎたところで路地に入る。 入り組んだ小径を進むと、モッコリと市指定史跡
本庄城址。 弘治2年(
1556)に児玉党の一族・本庄実忠によって築かれた。 天正18年(
1590)
豊臣秀吉の関東攻めにより落城し、
徳川家康の関東入国に伴い、
小笠原信嶺が城主となる。 しかし、子の代で下総国の古河城に移封され廃城となった。
鳥居をくぐると、
本庄新八景の石碑が建つ「歴史を今に伝える本庄城址の
城山稲荷神社」。 ご神木の
城山稲荷のケヤキが立派。 さすが県指定天然記念物だね〜。 本庄城が築かれた頃に献木されたそうで、古木の貫禄で?サルノコシカケがいくつもできている。 郷土かるた:
ほんじょうかるたの石碑にも「ケヤキの木歴史を語る城山稲荷」と刻まれている。
しかし残念なのが、ケヤキの根元に置かれている
旧社殿鬼瓦。 昭和61年(1986)に立てられた案内板には「現在の社殿は天保15年(1844)6月再建」とあるけど、平成11年(
1999)に城山稲荷の社殿は解体された。 瓦には桶川宿の
稲荷神社と同じ擬宝珠の神紋がかたどってある。

15:25 圓心寺 |

木が生い茂っていたので気がつかなかったけど、本庄城址を出ると雨が本降りになっている。 いよいよ傘を差してヨレヨレと歩く。
本庄駅入口交差点から1本手前の路地に
圓心寺。 天正年間(1573〜92)に開かれた寺で、天明年間(1781〜89)に建てられたという
円心寺の山門が市指定文化財。 ほんじょうかるたも「円心寺赤い山門そびえ立つ」。 しっぽりと濡れてイイ感じ。

15:40 城主の墓 |
本庄駅入口交差点から2本目の路地に
開善寺。 天正19年(
1591)本庄城主
小笠原信嶺が開いた寺で、
小笠原信嶺夫妻の墓が市指定史跡。 しかし、ほんじょうかるたに「開善寺本庄城主の墓ここに」とあるのに、場所が分からない。 境内の墓地を探しても分からない。(>_<)
あきらめて旧道に戻ろうとしたら、向かいの塀から宝篋印塔がニョキッ! ありゃ、向かいも墓地なのね。 境内の墓地を一所懸命探しちゃった。 そんなことなら、向かいの墓地にあるよと、開善寺の案内板を改善してほしい。 …。 しかし、さすがお殿様。 一段高い場所に葬られていると思ったら、墓は古墳の上に築かれているというのでビックリ! 信嶺は慶長3年(
1598)52歳で没し、妻の久旺院は元和9年(
1623)に没した。

15:50 本陣門 |

歴史民俗資料館 |

中央1丁目交差点から2本目の路地に県指定文化財の
市立歴史民俗資料館&市指定文化財の
田村本陣の門。 門の横に本庄新八景「旧本庄警察と田村本陣の門」&ほんじょうかるた「皇女
和宮涙を誘う田村門」「明治の香り歴史民族資料館」が並んでいる。 田村本陣には文久元年(
1861)降嫁のために下向した和宮が宿泊している。
歴史民俗資料館は明治16年(
1883)に建てられた
旧本庄警察署で、なかなかハイカラ。 本庄市は古墳が多いようで、館内には多くの埴輪が展示してある。 2階には本庄城祉推定図や本庄宿の地図が飾ってあり、本庄宿の地図を眺めると、うへ〜!本庄駅入口交差点を過ぎた辺りが
田村本陣跡&
内田本陣跡じゃん! 案内板や標柱はなかったと思うけど、傘を差して歩いていたので、集中力が落ちていたのかな? フツーに通り過ぎ…ってゆーか、本庄新八景やほんじょうかるたの石碑を建てているんだから、宿場施設の案内板や標柱も設置してほしいね〜。(T-T)


中央3丁目交差点から1本目の路地に
安養院。 こちらも本庄新八景「若泉の霊域安養院」&ほんじょうかるた「羅漢様鎮座まします安養院」が建っている。 文明7年(
1475)児玉党の一族・本庄雪茂の創建。
元は現在地より南西にある当時の富田村に、「安入庵」という名で営んだのがはじまり。 しかし、水不足に悩まされたため、土地を探したところ、現在の地を発見して、安養院を開基したとある。 その後は水不足に悩まされることもなく、周辺の人々から“若泉の荘”と呼ばれるようになったそうだ。
安養院本堂・山門及び総門が市指定文化財だけど、山門だけ解体工事中なのが残念。
本堂の奥…ってゆーか、道を1本挟んだ
普寛霊場に木喰
普寛上人の墓があり、市指定史跡。 享和元年(
1801)故郷の秩父へ行く途中、本庄宿の米屋弥兵衛宅で入寂。 歴史民俗資料館で見た本庄宿の地図に「普寛上人入滅地」が載っていたけど、中山道を挟んでちょうど安養院の向かい。
市立図書館を過ぎたら高橋整形外科の角の路地を入る。 Pにある猿田彦大神を横目に、明治8年(
1875)創業の
笹屋製菓舗(千代田1-3-21)屋。 本庄市を代表するお菓子:
くわつみ饅頭をお八つとして購入。


鬱蒼とした社叢の中に
金鑚神社
。 鳥居の足下に、本庄新八景「本庄まつりと金鑚神社」&ほんじょうかるた「総鎮守金鑚神社の神迎え」が建っている。 境内に入ってすぐ目につくのが、ご神木の
金鑚神社のクスノキ。 県指定天然記念物。 寛永16年(
1639)
小笠原信嶺の孫:忠貴が社殿改修の際に献木したもの。
本社は神川町に鎮座する式内社&武蔵国二宮の金鑚神社で、その遥拝宮として創建された。 神川町の本社は御獄山をご神体としているので本殿がないけど、当社は本殿と拝殿を弊殿でつないだ権現造りの社殿が建っている。 この権現造りの
本庄金鑚神社の社殿は市指定文化財で、
本殿は享保9年(
1724)、
拝殿は安永7年(
1778)、
弊殿は嘉永3年(
1850)に再建されたもの。 極彩色の彫刻がキレイ。
本庄金鑚神社の大門も市指定文化財で、見事な彫刻が施されている。 その他に、
カヤ・
金鑚神楽本庄組・ご神木のクスノキを植えた
小笠原忠貴建立祈願文などが市指定文化財で、お宝がいっぱ〜い。
予定では境内でお八つにしようと思っていたけど、ベンチがないのであきらめ…ってゆーか、それ以前にまだお腹ポンポコリン。 恐るべし、
六助うどん。(^-^;

17:05 本庄宿碑 |

金鑚神社を出ると千代田3丁目交差点に
中山道本庄宿碑。 交差点を右折するとR462。 歩道には中山道六十九次の宿場…ってゆーか、日本橋から草津までのプレートがはめ込んであり、埼玉県内にある宿場だけが浮世絵になっている。 う〜む、予算が余ったの? 『中山道分間延絵図』では、ちょうど交差点を右折したところに
木戸があり、これで本庄宿はおしまい。
一方、交差点を左折すると
藤岡道。
女街道(姫街道)とも呼ばれている脇往還。 藤岡・富岡・下仁田を経由して、和美峠を越えて、沓掛宿の
借宿で中山道と合流する。

17:10 旧道 |

マンホール |


右折するとR462は
枡形になっていて、すぐ左折。 今度は旧道らしい道幅でイイ感じ。 ふとマンホールを見ると、魚が描かれている。 巣も描かれているので、水草で巣を作って子育てをする
ムサシトミヨだ! 世界で
熊谷市にしか生息していない絶滅危惧種で、県指定天然記念物になっているけど、昔は本庄市内にも生息していたんだね。 さっきの
安養院が“若泉の荘”と呼ばれていたように、あちこちで若泉がボコボコと湧いていれば、ムサシトミヨも安心して棲めるんだけどね〜。

17:25 ポツン |

旧道部分は短くて、すぐK392に合流。 くりたストアー屋でPET茶を購入。 丁字路の角に
馬頭観音。 「交通安全」と刻まれているのでよく見ると、平成7年(1995)製で新しい! 普段目にするものは江戸時代に作られたものばかりだけど、交通事故でもあったのかな? 合掌。
ケーズデンキ屋のある名前のない交差点から「万年寺」。 ケーズデンキ屋を過ぎた筋違いの十字路が
追分。 右は
三国街道で、例幣使街道の玉村宿を経由して渋川宿で高崎宿からの三国街道と合流する。 左は児玉宿や藤岡市の
鬼石宿に通じる旧道。 この追分に
万年寺一里塚があったけど、案内板も標柱もない。

17:45 古墳 |

泪橋の欄干 |


蛇行した旧道を進むと上里町。 「上里」というと、つい思い浮かぶのは関越自動車道の上里SA。 群馬・新潟方面にスキーに行く時、よく利用したな〜。 懐かし〜。
左手にモッコリと町指定文化財
浅間山古墳。 円墳の中腹に祠の
浅間神社が鎮座している。 その横に横穴があるのでのぞいてみると、石室の入口に土嚢が積まれている。 石組みがキレイ。
はす向かいに
泪橋跡。 助郷制度が苛酷で、この付近の住民が石神村にあった泪橋に憩って、家族を偲び、身の儚さを嘆じて、涙したそうだ。 欄干の幅を見ると、ずいぶん細い小川のようなので、そんな小っちゃい橋のたもとに村人が集って涙している図は、ホントに人生って儚いという気持ちになって凹む…。

くわつみ饅頭 |

さらに蛇行した旧道を進んで、17:55神保原駅の入口となる丁字路で本日の旅は終わり。 何の変哲もない丁字路…ってゆーか、
神保原村道路元標が電柱に寄り添うように建っている。 喜多さんの1人が、仕事の関係でスケジュール合わせが難しくなったということで、残念ながら今回の旅で最後。 お疲れさまでした&今までありがとう。 食べ損なったお八つ:
笹屋製菓舗屋のくわつみ饅頭は電車の中でいただきました。
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