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Vol.11 新町宿倉賀野宿

(5.9km)


広重「新町」 宿場

2010年 9月18日(土)

 その名の通り、新しい宿場町という意味の新町宿。新町宿の前身である落合村&笛木村に伝馬役が命じられたのが慶安4年(1651)。享保年間(1716〜36)に「新町宿」と呼ばれるようになりました。ところで、今まで中山道の浮世絵は英泉で続いていましたが、新町宿は広重の作品です。
浮世絵ポイント 画像00

画像01 神保原村道路元標
 中山道歩きの7日目。出発する前に、前回泪橋跡の石碑に刻まれていた石神村について。泪橋が石神村にあったそうだけど、石神村ってどこなんだろう?と思ったら、前回の終点&今回のスタート地点である神保原駅入口の丁字路付近が村の中心部。そして、明治22年(1889)に石村は忍(おしぼ)村・八町河村と合併して神保原村が誕生。神保原って合併した村の名前を1文字ずつ取って付けられた合成地名なのでビックリ!(◎o◎) 旧石神村の中心部=神保原村の中心部ということで、神保原村道路元標が建っているんだね。
 しかし、現在の地図を見ると、上里町には神保原町とは別に、忍保も八町河原も載っている。何故か?合併したはずの忍保・八町河原という地名は復活しているのに、石神だけが地図上から消えている。神保原村の中心部だったのに…中心地だったのに…不憫で泪しちゃう。涙の道路元標。(T-T)
 8:55神保原駅入口の丁字路を出発。意外なことに信号がない。歩き始めるとすぐに自然石の庚申塔がおっは〜。「庚申塔」と刻まれている文字塔で、フツーはこの3文字だけのシンプルなものが多いけど、こちらは上部にある日と月の図が文字で「日光」「月光」と刻まれている。珍しい。
画像02 8:55 庚申塔 道路工事中で現場の人がおらたちを通り過ぎるのを待っている?
 枡形の神保原1丁目交差点を右折。往時は交差点の角のあたりに横町の立場があった。今でもその代わりに?近くにセブン茶屋があるので素晴らしい。
画像03 9:00 神保原1丁目交差点
 神保原北交差点で国道17号を横断。歩道がないので、行き交う車に注意しながら進む。左手に石仏群。近隣から寄せ集められたのだと思うけど、宝篋印塔まであってずいぶん豪華。はす向かいにまた自然石の庚申塔。道端にはコスモスが揺れていて、今日は歩き日和だね〜。
画像04 9:10 金久保の石仏群
 ところで、喜多さん(4代目)は蝶の採集をしたいと言って、虫取り網を持ってきている。いよいよ今日は上野国群馬県に突入するので、横浜にはいない蝶を捕まえたいんだって。虫取り網を適当にブルンブルンと振り回しているように見えるけど、もう数匹捕まえている。お目当ての蝶はまだ捕れていないようだけど、街道歩きでこんな楽しみがあるなんて、目から鱗粉。(◎o◎)
 八幡神社を横目に進むと「史蹟 金窪館址入口」の石標。あれ?スルーした八幡神社って、立ち寄ろうと思っていた金窪神社だったのね。金窪神社獅子舞が町指定無形文化財。社号標は「八幡神社」になっていたのに…。(T-T)
画像05 9:20 金窪館址入口
画像06 この奥に史跡があります
画像07 史蹟 金窪館址
 金窪館址入口から田んぼの中を進むと萠美保育園の角に「館址入口」の石標。左折すると道がクランクになっている。地元の方に呼び止められたので、金窪城跡に行く旨を話すと、行き過ぎたそうで、場所を教えてくれました。ありがとうございます。クランクの手前で庚申塔南雲稲荷大明神が並ぶ路地を進むと、県指定史跡の金窪館跡。う〜む、教科書『中山道を歩く』の地図が間違っているので、迷子になるところだった。(+_+)
 金窪館=金窪城は、治承年間(1177〜81)に武蔵七党の1つである丹党の一族・加治家治が築城。元弘年間(1331〜34)に新田義貞が修築して、家臣の畑時能に守らせた。室町時代には斎藤氏の居城となり、神流川の戦いで焼失した。案内板によると、まだ所々に堀や土塁が残っているみたい。
 旧道に戻ると陽雲寺。お宝がいっぱい。まずは参道の地蔵道標。元禄3年(1690)製のお地蔵さまに「これよりいかほかいとう」と刻まれている。陽雲寺手前の右に延びる路地が三国街道なので、元はその追分に建っていたんだろうね。この付近には傍示堂万年寺にも三国街道があるけど、道標が残っているのが素晴らしい!
画像08 09:45 地蔵道標
画像09 畑時能供養祠
 そして、石の祠が畑時能供養祠で県指定旧跡。時能は新田義貞の死後も南朝方のため孤軍奮闘したが、越前国で足利方に討たれた。従臣の児玉光信が時能の首級を持ち帰って供養したもの。後に光信も時能の墓側に葬られ、両者の姓を1文字ずつ取って「畑児塚」と呼ばれている。案内板には時能の没年が延元4年[暦応2年](1339)になっているけど、ホントは興国2年[暦応4年](1341)です。
画像10 陽雲院の銅鐘
画像11 陽雲院の墓
 境内には元禄8年(1695)製の県指定文化財銅鐘。さらに、墓地の奥に町指定史跡陽雲院の墓武田信玄夫人の墓)。へぇ〜、武田家ゆかりの寺なんだ。道理で猛々しい寺だと思った。…。案内板によると、当山は元久2年(1205)創建で、当初は満願寺と称した。室町時代に金窪城主:斎藤氏が崇栄寺と改めたが、神流川の戦いで焼失。その後、金窪領主となった武田信玄の甥:川窪信俊が養母である信玄夫人を伴って入封。夫人は当山の境内に居住したが、元和4年(1618)に没した。信俊は夫人の菩提を弔うために、法号である「陽雲院」をとって寺号を陽雲寺と改称した。
 石碑に「左大臣公頼」とあるので、案内板の信玄夫人というのは、正室の三条の方だ。しかし、三条の方は元亀元年(1570)に没し、法号と同じ寺号の円光院@甲府市に葬られている…。う〜む、陽雲院って誰? これ以上のことは地元の方にお任せします。(^-^; 疲れたので境内で10分休憩。(^-^;
画像12 10:15 石仏群の庚申塔
 賀美公民館に中山道案内板。新町宿への直路ができるまでは、陽雲寺の東で北に向きを変えて、角渕(つのぶち 群馬県玉村町)を経て、倉賀野宿へ向かっていたとある。へぇ、そうなんだ。道標もあるしね〜。
 賀美小学校の前にだけ歩道がある。校庭では運動会が行われているのですこぶる賑やか。小学校を過ぎると石仏群があり、デカい庚申塔が建っている。朝に出会った庚申塔は日月が文字だったけど、こちらはフツーに日月の絵が彫られている。ホッ。
 高窓のある民家の前を進むと石碑。何と!ここが勝場一里塚跡だって。一里塚の跡があるのはウレシいけど、の中山道案内板には、新町宿への直路ができるまでは、群馬県玉村町経由で倉賀野宿へ向かっていたと書いてあったけど…。
画像13 10:15 高窓のある民家
画像14 勝場一里塚跡
 新町宿が設置される前、新町宿の前身である落合村&笛木村に伝馬役が命じられたのは慶安4年(1651)。中山道に伝馬制を定めた慶長7年(1602)から50年も経っているので、当初「古中山道」である玉村経由の三国街道(伊香保街道)に一里塚が築かれていたんじゃないの?と思いきや、勝場一里塚は『中山道分間延絵図』にも載っている。「古中山道」の一里塚といえば原馬室一里塚@鴻巣宿を思い出すけど、「新中山道」の浅間神社付近には一里塚はない。しかし、こちらは「古中山道」の三国街道が「新中山道」の新町宿への直路に付け替えられても、新道の方に勝場一里塚が築かれている。う〜む、この違いは何?(◎o◎)
 勅使河原北交差点で国道17号と合流。NHK「街道てくてく旅」で中山道を踏破した中山道のアイドル:てっしー(勅使川原郁恵)が、一字違いだけど名前が同じだと感激していた交差点だね。
画像15 10:20 勅使河原北交差点
 寄り道のため、次の名前のない丁字路交差点を左折。JR高崎線の勅使河原架道橋をくぐると大光寺(だいこうじ)。建保3年(1215)に武蔵七党の1つで丹党の一族・勅使河原有直が創建、勧請開山が栄西という古刹。勅使河原氏館跡でもある。
画像18 地蔵堂の石幢&親子地蔵
 境内には町指定文化財の見透燈籠が置かれている。英泉の『本庄宿 神流川渡場』に描かれている“本庄側”の常夜灯。文化12年(1815)に建てられ、文政5年(1822)の洪水で倒れ、安政4年(1857)に復元されたもの。そして、明治20年代(1887〜96)に当山の境内に移された。
 当山も金窪館陽雲寺と同じように神流川の戦いで焼失したけど、何と!本堂の裏に鎌倉時代の勅使門(総門)が残っている。町指定文化財。「勅使山」と書かれた扁額は栄西の直筆だって! 隣の地蔵堂には永正6年(1509)製の石幢(六面地蔵)&親子地蔵(板石塔婆)が並んでいる。こちらも共に町指定文化財で、お堂の柱には、石幢「藤原信雄の墓」、親子地蔵「勅使河原直重親子の墓」と板書されている。
 大光寺を出るといよいよ神流(かんな)。埼玉県と群馬県の県境にして武蔵国と上野国(こうずけのくに)との国境。土手の上に案内板があるので見に行くと、天正10年(1582)滝川一益北条氏邦氏直が戦った神流川古戦場。町指定史跡。川を渡った所が古戦場だと思っていたけど、上里側にもあるのね。なるほど、両軍が川を挟んで対峙していたので、そりゃそうだ。こちらは北条軍の陣地。
画像19 10:35 神流川古戦場跡
 親柱に建つ一回り小さいレプリカの見透燈籠(本庄宿TOPの画像)を横目に神流川橋を渡る。歩道が狭いのに自転車の通行が多い。橋の車道は片側一車線でちゃんと車がすれ違えるのに、歩道の方は人がすれ違うのがやっと。自転車が来る度に立ち止まって道を譲らないと自転車は通れない。わずらわしい。しかし、神流川橋の歩道は自転車通行可にはなっていないので、「車両」である自転車は車道を走らないといけないんだけどね〜。
 神流川橋を渡り終えると群馬県高崎市。東京から94km。歩道が自転車通行可になった。橋の歩道が自転車通行可でないので車道に出なくちゃいけないけど、歩道と車道はガードレールに仕切られていて出られない。自転車のためにガードレールを切って、スムーズに出入りできるように…ってゆーか、神流川橋の通行区分っておかしくね?
画像20 10:40 高崎市側のレプリカ灯篭
画像21 10:50 神流川古戦場跡
 名前のない交差点で左手から合流してくる道が中山道。土手がサイクリングロードになっているけど、狭いながらも自転車用と歩行者用とシェアしている。右手に高崎市側で滝川軍の神流川古戦場跡。こちらは何故か?指定文化財にはなっていない。厩橋(まやばし(前橋))城主だった滝川一益は、緒戦は優勢だったものの大敗を喫し、上野国を捨てて本領の伊勢国に逃げ帰った。伊勢国への道のりは、碓氷峠・小諸城を経由して、中山道の元となる東山道を利用した。
 国道17号を進むと右に旧道。国道に「旧中山道」の標識があるので親切。それにしても、陸上自衛隊新町駐屯地があるからなのか?新町検問所と書いてある塔が気になる。国道17号と旧道の間に中山道新町宿碑&再建された見通灯篭が建っている。再建されたというのは壊れたからではなく、明治期に売却されて、現在は高崎市の大八木諏訪神社に置かれている。近年になって、新町側では元に戻してもらう交渉をしたもののうまくいかず、昭和53年(1978)に再建された。しかし、本庄側が「見透燈籠」で、新町側が「見通灯篭」ってのは一体…。
画像22 10:55 再建された見通灯篭
 名前のない交差点を渡ると八坂神社。ご神木の前に柳茶屋の芭蕉句碑が建っている。昔この辺りに大きな柳があり、そのそばにある茶屋を「柳茶屋」と呼んでいたそうで、久々の芭蕉句碑。しかし気になるのは、後ろの滑り台をよじ登っているデカいトカゲ!…のオブジェ。何だこりゃ? 「滑り台おしわけ見たる蜥蜴かな」。
画像23 11:00 八坂神社と芭蕉句碑
 宿内の旧道は真っ直ぐ。雰囲気が蕨宿に似ているな〜。諏訪神社に寄ると、獅子舞石鳥居小林穣洲先生寿蔵之碑御輿など、市指定文化財がいっぱい。石鳥居は元禄15年(1702)製で、老朽化のため境内の裏に埋めて保存されているのでビックリ!(◎o◎)
画像24 11:10 諏訪神社の石鳥居
画像25 11:20 ガトーフェスタ・ハラダ中山道店
 続いてガトーフェスタ・ハラダ茶屋中山道店(旧本店)。元は明治34年(1901)創業の和菓子屋で、当時の屋号は松雪堂(しょうせつどう)。戦後洋菓子&製パン業に転向して、今やラスクの有名店。せっかくなので、お八つ用にグーテ・デ・ロワをお買い物。大きいパッケージだとリュックの中で割れちゃうと思って小っちゃいのにしたら、「割れお徳用」だった。(+_+)
 十字路の角に行在所公園。公園の奥には新町道路元標&市指定史跡明治天皇新町行在所がある。明治天皇が明治11年(1878)北陸東海巡幸の際に宿泊した。元宿場で旧本陣があるのに、旧本陣が宿駅の西寄りであること&警備上の問題があるとして、わざわざ新築した。当時の建設費788円。ビックリ!(◎o◎)
画像26 11:25 明治天皇新町行在所
画像27 11:35 於菊稲荷神社水屋の水鉢
 さらに旧道から離れて於菊稲荷神社。鳥居の写真を撮ろうとしたら、その先には簡易トイレ…。トイレが本殿???と思ったら、参道がL字に折れている。ビックリした〜。(^-^; 文政6年(1823)製の於菊稲荷神社水屋が市指定文化財。彫刻が見事だけど写真を撮るのに金網がジャマ…。拝殿でお参りすると、薄暗くてよく見えないけど、於菊稲荷神社絵馬「武者絵」「遊女参詣」も市指定文化財。境内には幼児専用ベンチなんてのがある。
 喜多さんが飲物を買いたいというので、旧道から離れて新町駅に向かい、セブン茶屋でお買い物。商店街のレトロな雰囲気がイイ感じ。
画像28 11:50 レトロでのどかな駅前通り
 旧道に戻ると旅籠高瀬屋跡。文化7年(1810)小林一茶が高瀬屋に泊まった際に、夜更けに起こされて見通灯篭の寄付を強要された。懐が寒い一茶は断ったものの、しぶしぶ12文寄進した。そんなドラマのある見通灯篭は、先に書いたけど、新町宿にはない。(>_<)
画像29 11:55 ドカ〜ンと旅籠高瀬屋跡碑
 そして、ブロック塀に小林本陣跡の白い標柱がポツン。高瀬屋と小林本陣の間には久保本陣があったけど、標柱も案内板もない。しかし、本陣って宿場の中ほどにあるものだけど、新町宿の本陣はホントに宿場のはずれにある。
画像30 12:00 ポツンと小林本陣跡標柱
 ということで、これで新町宿の街並みは終わり。温井川の手前に日本スリーデーマーチ発祥の地。東松山市で開催される本大会は新聞でよく見かけるけど、第1回目の大会は昭和53年(1978)新町で開催された。おらは街道歩きが趣味だけど、歩くのは苦手なので参加したことはないな〜。(^-^;
画像31 12:05 日本スリーデーマーチ発祥の地
画像32 元は中の島に鎮座していた弁財天
 向かいに弁財天。往時は温井川にある中の島…ってゆーか、弁天島に鎮座していて、『中山道分間延絵図』にも描かれているけど、昭和48年(1973)治水の都合で現在の地に移された。境内に安政2年(1855)に建立された芭蕉句碑がある。木陰があるので10分休憩。
画像33 12:15 弁天橋を渡ると右に旧道
画像34 12:25 伊勢島神社と狛狐
 浮世絵ポイント@新町宿である弁天橋TOPの画像)を渡ると藤岡市となり、右に旧道。新町宿のある旧多野郡新町は、平成18年(2006)に高崎市に編入され、飛び地になっている。旧道の左側に「旧中山道」の標識があるけど、間違えて県道178号を進んでしまった旅人には見えないので、旧道の右側に設置した方がイイと思うんだけど…。
 伊勢島神社には狛犬の代わりに狛狐がいる。それなら「伊勢島稲荷神社」と呼ぶんじゃないの? 境内に石仏群。案内板がないのが残念。(+_+)
 広い敷地に白い塀や蔵が美しい川端家住宅。かつては「一町屋敷」と呼ばれた豪農で、主屋をはじめ、塀・蔵・門など、19棟も国登録有形文化財となっている。
画像35 12:30 川端家住宅
画像36 12:35 廃屋
 石仏がいっぱいの信迎庵を横目に、今度は廃屋。屋根に高窓が2つもある養蚕農家なのに残念。(T-T)
 中山道の標柱を横目に、関越自動車道をくぐると高崎伊勢崎自転車道。そのまま自転車道を横断すると、12:40お伊勢の森(神明社)。弁天橋で休憩した時に新町宿を終えればヨカッタのに、万歩計とGPSをリセットし忘れたので、ようやくここが新町宿の終点。
画像37 12:40 自転車道を越えるとお伊勢の森
画像38 お伊勢の森は神明社
 お伊勢の森の案内板によると、中山道はお伊勢の森の北側を通っていたけど、文化年中(1804〜18)に森の南側を通るようになったそう。帰宅してから文化3年(1806)完成の『中山道分間延絵図』を見ると、おお!中山道は確かにお伊勢の森…ってゆーか、神明社の北側を通っている! この付近の中山道の道筋はよく分からないので、高崎伊勢崎自転車道でも歩こうなどと思っていたけど、お伊勢の森に寄ったおかげで道筋が分かって、ヨカッタよかった。

おまけ
所要時間(休憩除いた正味時間) 3時間45分(3時間25分)
今日1日の所要時間(休憩除いた正味時間) 9時間00分(7時間10分)
万歩計®の歩数(今日1日の歩数) 14,943歩(31,138歩)
喜多さんの歩数(今日1日の歩数) 13,185歩(29,161歩)
寄り道含めたGPSの距離(今日1日の距離) 11.4km(23.7km)

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