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Vol.01 千住宿草加宿

(8.7km)


広重「千住」 宿場

2015年12月26日(土)

 日光道中&奥州道中の1つ目の宿場は千住宿。歌川広重は日本橋に続き、千住宿の顔として千住大橋を描いています。初めて架けられたのは文禄3年(1594)で、伊奈忠次が奉行を務めました。当初の名前は「大橋」。しかし、下流にも橋が架けられると、千住大橋と呼ばれるようになりました。
浮世絵ポイント 画像00

 素盞雄(すさのお)神社では、境内を散策したり、ご朱印をいただいたり、休憩したり。ツイッターでつぶやくようになってから、つぶやいている時間が半ば休憩しているようなもので、改まって休憩をしなくなってきたけど、ベンチがあるのでようやく15分休憩。11:15千住宿の巻スタート。
画像01 11:20 国道4号下りレーンに威厳を保つ千住大橋旧橋
 素盞雄神社を出ると千住大橋隅田川を渡る。現在の橋は関東大震災の復興事業で、昭和2年(1927)に木橋から鉄橋へと架け替えられた。タイドアーチ橋としては日本最古。その後国道4号の交通量が増え、昭和48年(1973)に上り車線専用の新橋が増設された。千住大橋旧橋は下り専用となって何だか小っちゃく見えるけど、橋名板にはド〜ンと「大橋」と書かれていて、近くで見るとなかなか重厚。
 千住大橋の下を流れている川は時代と共に名称が変わっている。古くは渡良川。初めて千住大橋が架けられた時は入間川。伊奈忠次が中山道熊谷宿で荒川の瀬替えをしてからは荒川。昭和時代に荒川放水路ができて、戦後に隅田川となった。
 千住大橋を渡ると足立区。千住大橋橋詰テラスの堤防の壁に「おくのほそ道」の一節と、与謝蕪村「奥の細道図屏風」の挿絵が描かれている。「おくのほそ道 旅立ちの地 千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ」ということで、白地に別れの杯。
画像02 11:25 おくのほそ道 旅立ちの地@千住大橋橋詰テラス
 テラスに下りる手前に大橋公園おくのほそ道矢立初の碑おくのほそ道行程図(案内板)が建っている。この場所は千住宿の橋戸河岸。歌川広重の名所江戸百景「千住の大はし」では、荒川(隅田川)に架かる千住大橋の両岸が船着場で、多くの船がつながれている。

行春や鳥啼魚の目は泪

 元禄2年(1689)3月27日、松尾芭蕉と同行の河合曾良は草庵のあった深川から船に乗り、矢立て初めの地:この千住から一歩を踏み出す。元禄2年は芭蕉が敬愛する西行の500回忌の年。
画像03 おくのほそ道矢立初の碑
画像04 橋戸稲荷神社
 大橋公園の先に橋戸稲荷神社が鎮座。延長4年(926)創建というので、日光道中沿道の歴史は古いね〜。本殿伊豆長八の鏝(こて)が区登録有形文化財。
 日本橋を立ってすぐ分かれたものの、再び出会った国道4号とはまたしばしの別れ。国道4号は左カーブするけど、旧道は足立市場前交差点を真っ直ぐ。足立市場の塀に「千住宿 奥の細道」と書かれ、松尾芭蕉生誕360年記念事業として平成16年(2004)に矢立初芭蕉像が建てられた。おーっ!千住宿ってのは、日光街道じゃなくて、おくのほそ道の宿場かいっ! ちょっとビックリしたけど、「旧日光道中(陸羽街道)」と書かれた標識や「日光道中千住宿」の石標もあるので、日光街道の宿場ということはアピールしてるのね…ホッ。
画像05 11:40 千住宿奥の細道プチテラスの矢立初芭蕉像
 家並みをキョロキョロしながら進んでいると建物の前に屋号が掲げてある。同じ五街道一番目の宿場である東海道品川宿中山道板橋宿では見られなかった光景。日光道中千住宿は頑張っているね〜。しかし、往時の千住宿はまだ先で、この付近は掃部(かもん)宿。千住宿を歩く前に、掃部宿にCome On! …。この辺りは、武蔵千葉氏の一族である石出吉胤が慶長3年(1598)から新田開発した地域。街道筋は商人が集まり、やっちゃ場と呼ばれて賑やかだった。
画像06 11:50 千住宿歴史プチテラスの土蔵
画像07 ここから大師道で西新井大師にGO!
 左手の路地入口に「旧日光道中」「是より西へ大師道」と刻まれた石標が立っている。今日は帰りに西新井大師に寄るので、街歩きだったら遠回りの日光街道じゃなくて、大師道をブラブラ歩くのもイイね。
画像08 12:00 石出掃部亮吉胤の墓
 千住仲町交差点に源長寺。慶長15年(1610)石出吉胤によって開創された。しかし、吉胤が千住大橋架橋の奉行を務めた伊奈忠次を敬慕していたので、忠次を開基としている。掃部宿開発に尽力した吉胤は元和4年(1618)に没。石出掃部亮吉胤の墓が区指定史跡となっている。
 左手の南門から歩道に出ると、吉胤が元和2年(1616)に築造した掃部堤跡。へぇ、当山の横を走る都道461号「墨堤(ぼくてい)通り」が堤の跡なのね。言われないとまったく分からない。
 千住仲町交差点で旧道に戻らず、そのまま墨堤通りを東に寄り道。路地裏に仲町氷川神社。ひっそりとしているけど、当社はお宝がいっぱい。
 まずは区登録有形文化財の関屋天満宮碑。登録文化財ってのは、天満宮ではなくて、碑の方。天満宮自体も、社や祠はなく、石の上に御幣を立てただけなので珍しいけどね。碑は鳥居の影に隠れて目立たないけど、文化4年(1807)製で和歌や漢詩が刻まれている。
画像10 12:05 関屋天満宮碑
画像10 弁天像供養庚申塔
 そして、区登録有形民俗文化財の弁天像供養庚申塔。ほぉ、弁天さまの庚申塔って初めてかも。天満宮には祠すらなかったのに、弁天さまの庚申塔は岩の祠に安置され、大事にされている。しかも、元禄2年(1689)製で、古い! そのほかにも、これまた区登録有形文化財の金銅装神輿四神文鏡があるけど、見てないので、詳しくは地元の方にお任せします。(^-^;
 街道復帰して掃部宿を進むと名前のない交差点。ここが千住一里塚跡で、右手の植え込みに一里塚跡碑が立っている。左手は高札場跡。もう掃部宿のはずれで、往時は水除堤が横たわっていた。堤に沿った堀に架けられた板橋を渡ると、いよいよ千住ほんちょう商店街…じゃなくて、千住宿。
画像11 12:15 名前のない交差点から千住宿スタート
画像12 問屋場・貫目改所跡
 千住宿が日光道中の初宿と定められたのは寛永2年(1625)で、はじめは千住一丁目から五丁目までだった。しかし、万治元年(1658)に掃部宿が千住宿に加宿され、さらに寛文元年(1661)には荒川南岸の中村町&小塚原町も加宿された。なるほど、南千住も千住宿だったのね。
 千住宿に入ると、東京芸術センターに問屋場・貫目改所跡。すぐに宿場の施設があるのね。問屋場は元禄8年(1695)、貫目改所は寛保3年(1743)に設置された。貫目改所は馬に積む荷物の量を改める役所で、東海道では品川宿・府中宿・草津宿、中山道では板橋宿・洗馬宿、日光道中ではこの千住宿と宇都宮宿に設置された。
 東京芸術センター角の路地を進んで寄り道。まずは不動院で、戊辰戦争に従軍した安芸藩士の芸州供養塔にお参り。そして、お隣の慈眼寺。正和3年(1314)に創建された古刹で、本陣の代わりを務めることもあった。案内板によると、境内にある板碑地蔵菩薩庚申塔庚申塔が区登録文化財。庚申塔2基は見つけられたけど、板碑の場所は分からない。当山には江戸町火消しから続く千住町消防組の屯所があったそう。安政年間(1854〜60)に「南北千住消防組」ができたことから、大正12年(1923)に殉職者を慰霊顕彰する南北消防組記念碑が建てられた。
画像13 12:25 区登録文化財の庚申塔2基
画像14 南北消防組記念碑
 ダイエートポス北千住店を過ぎると千住二丁目。千住三丁目は国道4号と北千住駅をむすぶ広い道路からと思いきや、その次の、車が通れないほどの細い路地が境なので意外。その千住三丁目の角にある100円ショップ・そのうハッピーショップが千住宿本陣跡。区登録史跡。一丁目&二丁目は千住本町商店街だったけど、三丁目から千住宿場町商店街になる。人通りが多いので写真撮影が大変。(^-^;
画像15 12:35 千住宿本陣跡 左の境界の路地に案内板があります
 お休み処「千住 街の駅」でガイドマップをGETして、セブン茶屋の細い路地を入ると千住本氷川神社。由緒が面白い。徳治2年(1307)に千葉氏によって牛田の地に氷川社が創建された。江戸時代初期、現在地に分社を建立。明治43年(1910)荒川放水路建設のために牛田氷川神社を分社した当社に合祀。親が立ち退きで子の世話になり、「牛田」の名を継ぐのかと思いきや、社号は千住の本(元)になった氷川神社ってこと? 当社は旧社殿が区登録文化財。日光東照宮造営に奉仕した大工が建立したそうで、龍や鳥などの彫刻が見事。
画像16 12:45 千住本氷川神社旧社殿
画像17 足立区年中無休ラジオ体操発祥之地碑
 さて、気になるのは足立区年中無休ラジオ体操発祥之地碑。ラジオ体操発祥之地とチラ見して、マジか!と思ったけど、よく見たら足立区年中無休ラジオ体操発祥之地。毎日休まずにラジオ体操をするなんて、小学生の夏休みだけしかしていないおらとしては、頭が下がります。(^-^;
 千住ほんちょう公園の「千住宿 高札場 由来」案内板を横目に先へ進む。公園を過ぎると人通りが少なくなって、なかなかイイ感じの風景。
画像18 13:05 左手に千住絵馬屋・吉田家 右手に元地漉紙問屋・横山家住宅
 左手は江戸時代から続く千住絵馬屋・吉田家。当家に保存されている吉田家絵馬資料と、江戸時代からの伝統を守る千住絵馬づくりが区登録文化財となっている。現在のご主人は8代目。
画像19 千住絵馬屋・吉田家
画像20 元地漉紙問屋・横山家住宅
 右手は元地漉紙(じすきがみ)問屋松屋の横山家住宅。江戸後期に建てられたという母屋は昭和11年(1936)に改修されているけど、よくぞ空襲で焼けなかったものだ。こちらも区登録文化財。敷地には明治9(1876)年に建てられた外蔵がある。さっき立ち寄った千住宿歴史プチテラスの建物が土蔵だったけど、何と!その土蔵は天保元年(1830)に建てられた横山家の内蔵で、プチテラスに移築したもの。そんなことだったら外観の写真だけじゃなくて、中にも入っておけばヨカッタ。(^-^;
 もう13時を回って、ようやくランチ…ってゆーか、お八つ。(^-^; かどや槍かけだんごで舌鼓。今朝は4時に起きてトースト1枚食べただけなので、もう腹減った…。(+_+) あまりにも腹減ってやきとあんを2本ずつ注文んだらご主人が驚いているので、日本橋から日光街道を歩いて来たと言ったら、並んでいるお客の方にビックリされた。狙い通り(笑)。お店のベンチで10分休憩。ふぅ。
画像21 13:10 かどやの槍かけだんご
画像22 13:30 在りし日の槍掛けの松
 先を進むと、名前のない交差点に「北へ 旧日光道中」「東へ 旧水戸佐倉道」と刻まれた石標。ここが水戸佐倉道(水戸街道・佐倉街道)の追分。水戸街道は歩いてみたい街道の1つなので、ここでは触れないでおきたいところだけど、ちょっと寄り道して槍かけだんごの由来の地へ。高正天満宮縁起碑正木櫟蔭事績碑が区登録文化財となっている千住四丁目氷川神社を横目に清亮寺。詳しくは水戸街道を歩く時にするとして、槍掛けの松の案内板をパチリ。枯れてしまって残念だけど、ホントに槍を立て掛けるのに便利な曲がり具合だね〜。
 水戸佐倉道の追分から100mほど進むとまた追分。日光街道は左折するけど、真っ直ぐ進む道は下妻道(下妻街道)。“教科書”『今昔三道中独案内』には滝山道となっているけど、下妻街道を北上すると、喜連川宿で奥州道中と合流する。ちなみに、古奥州道はこの追分から中川沿いを北上して、越ヶ谷に出ていた。
画像23 13:45 名倉医院の長屋門
 この下妻街道沿いにあるのが区登録史跡千住名倉医院。名倉家は秩父庄司畠山氏の出で、明和7年(1770)名倉直賢がこの地で接骨医を開業。往時は骨接ぎといえば名倉、名倉といえば骨接ぎの代名詞になるほど賑わっていたそうだ。現在の院長は直賢から数えて8代目。
 下妻道の追分から旧道は北西に進んで荒川を横断…ってゆーか、土手にぶつかって消滅。大川町氷川神社旧千住新橋親柱を見学してから、千住新橋荒川を渡る。しかし、往時はここに荒川は流れていなかった。
画像24 14:05 千住新橋から荒川上流を臨む 旧道はこの辺りを横切っていました
 本来の荒川は現在の隅田川で暴れ川。度重なる洪水対策として、千住宿の北側を通る荒川放水路の建設を計画。岩淵水門から河口まで全長22km。明治44年(1911)に着手され、1,300世帯の住民が移転を余儀なくされた。大正13年(1924)に通水が行われ、昭和5年(1930)に完成。その後の昭和40年(1965)に荒川放水路が荒川の本流と定められ、岩淵水門から下流域の旧荒川を隅田川と改称した。
 千住新橋を渡ると首都高速中央環状線を横目に荒川左岸の土手を進む。千住新橋出入口の料金所を目指すと川田橋交差点から旧道復活。石不動堂子育八彦尊道道標を横目にひたすら北上。足立梅田郵便局の手前、名前のない交差点に「右 旧日光道中」「左 東武鉄道旧線路跡」と刻まれた石標。この辺りから車、歩行者・自転車が増える。特に自転車。狭い歩道なのに自転車通行可で、歩行者より速いスピードで通り抜けるのでおっかない。向かって来る自転車はまだイイけど、お年寄りを追い抜くのに後ろを振り返らないと、後ろから来る自転車と接触する恐れが。
画像25 14:35 賑やかな東武梅島駅前
画像26 14:45 ゴールの島根交差点
 身の危険を感じながら梅島駅を通過。梅島駅を過ぎると歩道の幅が広がるのでホッ。足立区の歩道は危険が一杯なので早く通り過ぎたいけど、本日の終点は梅島駅から600mほど北にある島根交差点で、まだまだ足立区。14:45だと時間的にはまだ早いけど、今までの街道歩きの“初日”としては一番たくさん歩いたな〜。街道歩きは早めに切り上げて、一度行ってみたかった西新井大師にお参り。(^-^;
 何の変哲もない島根交差点を左折して、都道318号環状七号線を1.7kmほど進むと西新井大師。お参りの前に、お八つ…ってゆーか、ようやくお昼ご飯。(^-^; 明治30年(1897)創業の武蔵屋でうな重♪ 今日は街道歩きは短めにして、13〜14時頃に当店で昼食と思っていたけど、思ったより見どころが多くて15時になってしまい、腹減った。(^-^; 話を伺うと、当店は武蔵屋になる前の弘化2年(1845)に掛け茶屋江川屋として創業。宿場町の老舗ではないけど、歴史あるお店で食事ができてウレシい。
画像27 武蔵屋のうな重
画像28 老舗が向かい合う西新井大師の門前
 食事が終わっていよいよお参り。西新井大師の門前に向かい合って団子屋。あ!この風景TVで観たことある。右手は文化2年(1805)創業の中田屋で、左手は元禄2年(1689)創業の清水屋。さすが歴史の古い門前町だけに、江戸時代から続く老舗がいくつもあるんだね〜。日光街道歩きで西新井大師まで寄り道する旅人は少ないと思うけど、来てヨカッタ。お土産の団子はお参りの帰りに買いました。(^-^;
 さて、ようやく西新井大師。正式名称は五智山遍照院總持寺。天長3年(826)に弘法大師が関東巡錫の際この地に立ち寄り、悪疫流行に悩む村人たちを救おうと、十一面観音像を彫り、枯れ井戸に安置して護摩祈願したのがはじまり。お堂の西側にあった枯れ井戸から清水が湧いたので、当地が「西新井」という地名になったそう。(◎o◎) 江戸時代は女人禁制の神社仏閣が多い中、当山は女性の厄除け祈願所だったそうなので、ずいぶん賑やかだったろうね。しかし、年末年始の準備で境内が工事現場のようで、ゆっくり散策する雰囲気ではなかった。(^-^;
画像29 年末年始の準備で忙しい西新井大師總持寺本堂
 当山は古刹だけにお宝がいっぱい。江戸後期に建立された山門が区指定文化財。境内左手(西)にある三匝堂は三階建ての栄螺堂で区登録文化財。何と!寺宝には、国宝の鋳銅刻画蔵王権現像や重文の絹本着色弘法大師像・絹本着色天台大師像などがある。まだほかにもあるけど、詳しくは地元の方にお任せします。(^-^;
 東海道の初日は、初めての街道歩きでどのくらい歩けるのか分からず、日本橋を午後出発。一番目の宿場:品川宿の入口まで歩いて、JR品川駅から帰宅。中山道の初日は、東海道の時よりも歩こうと午前中に出発。しかし、2〜3日前に風邪を引いてしまい、体調不良で一番目の宿場:板橋宿までたどり着けず、JR板橋駅から帰宅。ということで、東海道中山道も日本橋の巻で終わってしまいました。しか〜し、今回は違います(笑)。日光道中の初日は、中山道の時よりも2時間ほど早く出発して、ヤル気満々。3街道目にしてようやく一番目の宿場(千住宿)まで完歩しました。\(^-^)/ ヨカッタよかった。でも、調子に乗って街道歩きとは関係ない観光までして、もうヘロヘロ。(^-^;

おまけ
所要時間(休憩除いた正味時間) 3時間30分(3時間20分)
今日1日の所要時間(休憩除いた正味時間) 7時間35分(7時間10分)
万歩計®の歩数(今日1日の歩数) 12,869歩(28,364歩)
寄り道含めたGPSの距離(今日1日の距離) 10.0km(22.7km)
経費(日本橋〜千住宿分交通費含む)
往路:JR東海道本線戸塚駅→東京駅
712円
帰路:東武大師線大師前駅→東京メトロ日比谷線上野駅
JR上野東京ライン上野駅→戸塚駅
330円
712円
とらマップ

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