スライドショー01 スライドショー02 スライドショー03 スライドショー04 スライドショー05 スライドショー06 スライドショー07 スライドショー08 スライドショー09 スライドショー10
バナー

Vol.18 白沢宿氏家宿

(5.9km)


2017年 4月10日(月)

 昨年12月に日光道中二十一次を踏破して、いよいよ奥州道中を歩きます。春を待たずに、中山道のように1月から歩けばイイものを、初日にさくら市を通るので、桜の季節まで待ちました。(^-^; タイトルが白沢宿氏家宿で、距離が5.9kmとなっているけど、スタート地点の宇都宮宿から白沢宿までは、もっと長くて10.9kmほど。宿場の割り振りの関係で、距離がずれてしまいました。(^-^;

 宇都宮駅から本日のスタート地点:日光街道と奥州街道の追分まで、一本道で約2km。途中に下野国一宮宇都宮二荒山神社が鎮座。本来なら街道歩きの寄り道として立ち寄りたいところだけど、せっかく鳥居の前を通るので、先にお参り。当社の別称が宇津宮で宇都宮の地名発祥の地。往時は宇都宮大明神と呼ばれていた。
画像01 宇都宮二荒山神社
 二荒山神社はややこしい。当社の正式名称は二荒山神社。昨年お参りした日光の二荒山神社と区別するために「宇都宮二荒山神社」と呼ばれる。しかも、同じ二荒山神社なのに、宇都宮と日光では読みが違う。宇都宮は「ふたあらやま」、日光は「ふたらさん」。さらに、両社とも下野国の一宮というので、ホントややこしい。
画像02 三十八間星兜
画像03 鉄製狛犬
 当社は歴史が古く、仁徳天皇の時代に祀られたのが始まりで、承和5年(838)に現在地である臼ヶ峰に遷された。遷されたといっても、県道を挟んだ向かいのパルコの裏が創建の地で、現在は摂社下之宮が鎮座している。そんな古社にはやはりお宝がいっぱい。南北朝時代の三十八間星兜&建治3年(1277)製の鉄製狛犬が国認定重要美術品。ほかにも、県指定文化財の正次作太刀や、市指定文化財など多数。境内の二荒山会館でフツーに拝観できるので、ありがたいことです。
 片側3車線の広〜い大通りを進むと名前のない交差点。昨年9月以来7カ月ぶりとなる日光道中と奥州道中の分去れ:宇都宮宿伝馬町の追分。往時は右手(南側)に問屋場貫目改所上野本陣が並んでいた。しかし、平日の朝のため、通勤ラッシュで人も車も多くて、撮影に時間がかかる。そういえば、昨年も平日で、夕方の帰宅ラッシュで大変だったな〜。
画像04 8:55 日光街道と奥州街道の追分からスタート
 8:55スタート。左側の歩道を進むとすぐに伝馬町バス停があり、この付近が高札場跡。緩やかな坂を下ると池上交差点。旧池上町が宇都宮宿の中心地で、池上交差点の中央分離帯に栃木県道路元標が置かれている。宇都宮宿のもう1つの本陣も旧池上町にあり、『奥州道中分間延絵図』では本陣の裏に正行寺があるので、現況だとホテル丸治石塚本陣跡? しかし、当ホテルは脇本陣の分家で元旅籠というので、本陣跡はその左か?右か?ということになるんだろうけど、よく分からない。脇本陣も池上交差点の南側にあったと思うけど、場所は分からないので、本陣跡・脇本陣跡の件は地元の方にお任せします。(^-^;
画像05 栃木県道路元標@池上交差点
画像06 石塚本陣跡付近に建つホテル丸治
 そうそう、気になるのは一里塚。日光道中は伝馬町の追分を過ぎるとすぐ一里塚があるのに、奥州道中にはない。伝馬町追分〜宇都宮一里塚跡の距離を奥州道中に当てはめると池上交差点付近になるけど、本陣や脇本陣などのランドマークがあるので一里塚は必要なかったのかな?
 宇都宮宿は城下町なので枡形が多く、カクカクと曲がる。まずは釜川に架かる都橋を過ぎたら路地を右折。しかし、大通りの左側を歩いていると横断歩道がない!Σ(゚д゚lll) 前後の交差点は100〜150mほど離れて、遠いな〜などと考えていたら、赤信号で車が途切れたのでチャ〜ンス! 6車線の大通りを歩いて渡ったら、地下道の入口発見! も〜、早く言ってよ〜。よい子は真似しないで!
画像07 9:05 アーケードのオリオン通り商店街を左折
 枡形の路地:鉄砲町通りを進むとアーケードのオリオン通りにぶつかる。ここも枡形で、左折するとオリオン通り曲師町商業協同組合の商店街。道幅が広いけど、アーケードは170mほどでおしまい。出発前に立ち寄った宇都宮二荒山神社の鳥居を横目に、今度はスラロームの日野町通り。曲師町は大字として残っているけど、鉄砲町も日野町も町名としては消えてしまった。しかし、通りの名前として残っているのがウレシいね。
 県道35号今小路通りにぶつかり、枡形を左に右に曲がると大町通り。オリオン通り・日野町通りに比べると、閑散として寂しい。しかし、明治27年(1894)創業の目加田酒店や、寛永2年(1625)創業の青源があるので、往時の大町通りは賑やかだったんだろうね。青源は宇都宮駅ビル「パセオ」のテナントで餃子店が入っていて、日光街道最終日にネギ味噌焼餃子で完歩いしたけど、本社が奥州街道沿いとは知らなかった。(^-^; ちなみに、青源が味噌製造を始めたのは明治になってからで、江戸時代は米雑穀商だった。
画像08 9:20 目加田酒店
画像09 9:30 青源(上河原通りから撮影)
 上河原通りにぶつかって枡形を左折。この上河原通りは宇都宮宿の入口:不動前から続く奥大道(おくのおおみち)らしい。日光東照宮が完成して日光道中が確定する頃までは、この田川沿いを北上していたんだね。そんなわけで、宇都宮宿には日光道中の一里塚はあっても、奥州道中の一里塚がないのかな?
画像10 9:35 正面の妙正寺前で右折して上河原通りとまた合流
 宇都宮駅と伝馬町の追分をむすぶ大通りを横切ると、車道が右カーブして左側の歩道がやけに広い。その広い歩道は正面にある妙正寺の参道のように見えるけど、ここも枡形。旧道は妙正寺にぶつかってから右折して、上河原通りに戻る。
 妙正寺の門前を横切る道は清厳寺通り。奥州道中とは逆に左に進むと、天正元年(1573)創建の清厳寺。元は建保3年(1215)に宇都宮頼綱(蓮生)が現在の宇都宮駅東口に位置する宿郷に草創した念仏堂で、宇都宮氏の家臣芳賀高継がこの地に移して清厳寺とした。頼綱が清厳寺の開基ということで、境内に蓮生法師の墓宇都宮五代城主頼綱と芳賀高照・高継の墓所)がある。しかし、頼綱の墓は京都三鈷寺にあるので、当山の墓は後世に建てられた供養塔らしい。
画像11 9:40 蓮生法師(宇都宮頼綱)の墓
画像12 国内唯一の鉄製卒塔婆
 境内に入ると右手に蔵が2棟並んでいる。手前の蔵が重文鉄塔婆収蔵庫で、その名の通り国指定重要文化財の鉄塔婆が収められ、自由に拝観できる。ありがたいことです。正和元年(1312)宇都宮8代城主貞綱が亡き母の十三回忌の供養のために建立したもの。
 蔵の後ろには隠れるように鐘楼が建っている。目立たないので通り過ぎちゃいそうだけど、第二次世界大戦中の供出から免れた銅鐘で、寛延4年(1751)に鋳造されたもの。市指定有形文化財。
画像13 目立たない場所にある銅鐘
画像14 復元された子育地蔵尊
 参道左手に子育地蔵尊。元は正徳4年(1714)に建立されたお地蔵さまだけど、銅鐘の身代わりになったのか?第二次世界大戦中に供出。戦後大谷石の台座だけが残されたそうだけど、平成7年(1995)に復元された。メデタシめでたし。中門と蓮生法師の墓の間に徳本供養塔があったりして、当山は見どころが多い。
 妙正寺門前の枡形に戻って先を進む。市指定有形文化財の樋爪氏の墓を横目に田川に架かる幸橋。『日光道中分間延絵図』では田川土橋となっているけど、上河原橋と呼ばれていたらしい。明治14年(1881)明治天皇が巡幸の際、渡った後に幸橋と改称された。それにしても、田川沿いに咲く枝垂れ桜が美しい。
画像15 9:50 田川沿いに咲く枝垂れ桜
 幸橋を渡ると、その先の名前のない交差点に風格のある建物。宇都宮市を代表する旧家の一つで、江戸時代中期から醤油醸造業や肥料商を営んでいたという旧篠原家住宅。母屋である蔵造りの店蔵は明治28年(1895)に建てられたもので、国指定重要文化財&市指定有形文化財となっている。一般公開されているので見学しようと思っていたけど、月曜日なので休館日。ガ━(゚Д゚;)━ ン !!! 当初は土日に歩く予定が雨の予報で月曜日になったんだけど、公共施設の休館日のことまで考えていなかった…ガクッ。
画像16 9:55 宇都宮宿のはずれでど〜んと構える旧篠原家住宅
 旧篠原家住宅のある辺りが往時の博労町で宇都宮宿のはずれ。実質的な奥州街道はこれからがはじまり。伝馬町の追分で日光道中と奥州道中が分岐しているのに、この先の竹林村までは『奥州道中分間延絵図』ではなくて『日光道中分間延絵図』の方に載っている。
 旧篠原家住宅から県道125号の右側の歩道を北上。八坂神社の神楽が市指定無形文化財となっている八坂神社を横目に二又の今泉交番前交差点。右に分かれる道は明治17年(1884)に開通した新道:陸羽街道で、旧国道4号。奥州道中は真っ直ぐ進む。奥州道中である県道125号は路線名が氏家宇都宮線だけど、次の宿場の白沢を取って、当交差点から愛称が白沢街道となっている。
画像17 10:10 横断歩道がない今泉交番前交差点
画像18 10:25 民家にモッコリ上人塚
 さて、この今泉交番前交差点はヒドい交差点。県道125号の右側の歩道を進んでいると横断歩道がない! 何故か?交差点の県道北側だけ横断歩道があるという不思議な造り。仕方がないので県道が赤信号の時に横切ったけど、旧陸羽街道から車が来るので危険。当交差点の手前に名前のない交差点があるけど、100mも離れていてスゴく遠い。栃木県は車だけではなく、歩行者のことも考えて道路を造ってほしいねっ!(`ヘ´)
 先を進むとまた二又…ってゆーか、右手の路地(烏山道)を進むと民家の庭にモッコリと塚。『日光道中分間延絵図』にも載っている上人塚で、中世の高塚らしいけど、詳しいことは分からない。中世の上人塚じゃ古すぎて、目撃している証人はいないよね。…。(^-^;
 竹林町交差点を過ぎるとその名の通り竹林町(たけばやしまち)。ひときわ目立つ豪農岩淵家の長屋門が立派。明治27年(1894)に建てられたもので、長屋門の他にも明治14年(1881)の石蔵や明治36年(1903)の土蔵が残っている。
画像19 10:35 岩淵家の長屋門
 岩淵家から100mほど北上すると宝蓮院。右隣…ってゆーか、北隣の高窓のある民家が出口の立場跡。往時の竹林村は心太(ところてん)が名物だったそうなので、馬子や旅人が心太をズルズルとすすりながら休憩していたんだろうね〜。
画像20宝蓮院と出口の立場跡
 「本」の看板が目立つTSUTAYAの手前に商店長屋。向かいにはファミマ茶屋。標柱や案内板はないけど、ここが竹林一里塚跡で、宇都宮宿伝馬町の追分から、ようやく1つめの一里塚。一里塚といえば、立場とワンセットになっているイメージがあるけど、出口の立場跡から200mほどしか離れていないのに、立場と一里塚が別々なのは残念。(^-^;
画像21 10:40 竹林一里塚跡はTSUTAYAとファミマ茶屋が目印
画像22 10:55 土堂原の首切り地蔵
 豊郷南小学校の満開の桜を横目に岩曽交差点を右折。空き地に石仏が点在している。祠に享保8年(1723)製のお地蔵さまが安置されていて、その名も首切り地蔵。この付近は宇都宮藩の土堂原の刑場跡で、『奥州道中分間延絵図』では地蔵森と書かれている。そういえば、日本橋と千住宿の間にも小塚原の刑場跡があって、デッカい首切地蔵が鎮座していたね〜。民家が途切れたところに刑場があるんだろうけど、賑やかなイメージのある品川宿のはずれにも鈴ヶ森刑場があったりするので、宿場と宿場の間というのは思っているよりも寂しいんだね〜。
 往時は地蔵森を過ぎると旧岩曽村から松並木が続いていたけど、残念ながら今ではもう松は見当たらない。宇都宮化成工業の満開の桜を過ぎると、旧岩曽村と旧下川俣村の境となる堀切川。堀切川の手前に街道名残のサワラ(椹)があり、サワラと堀切川の間に旧道の蛇行跡が残っている。4車線の太い白沢街道に旧道の蛇行跡が残っているなんてウレシいね〜。
画像23 11:10 このサワラと堀切川の間に旧道の蛇行跡が残っています
 堀切川を渡って白沢街道の左側にある蕎麦屋辰悦茶屋で昼食。少し時間が早いけど、下川俣町を過ぎると食事処が少なくなるので、今のうちに食べておかないと。鴨の他人丼をいただく。スープ代わりの小蕎麦もちゃんと手打ち♥
画像24 鴨の他人丼@手打ちそば 辰悦
画像25 11:55 サワラの切り株のある風景
 35分の昼食で外に出ると、新しめの切り株が…。以前は並木だったのかな?と、帰宅後にストリートビューで過去の画像を見ると、何と!街道名残のサワラが3本並んでる! この1年半の間に伐採されてしまったのかぁ。残念!(>_<) ということで、Googleストリートビュー2015年10月の画像です(涙)。
 ありゃ〜、Googleマップを眺めていたら、旧道の蛇行跡は堀切川の手前左側だけじゃなくて、橋を渡ってから右側にもあり、歩道が外側に膨らんでいる! 旧道は堀切川の前後で今より左に右に蛇行していたのが、道路改修でほぼ真っ直ぐに矯正されてしまったんだね。予習の時はこの周辺で食事処を探していたので、全然気がつかなかった…ガクッ。_| ̄|◯
 4車線道路だった県道125号白沢街道は、下川俣町交差点を過ぎると片側1車線となる。海道町交差点の100mほど手前左手の民家が高札場跡
 そして、海道町交差点を左折してちょっと寄り道。100mほど入ると海道町公民館があり、この付近が海道新田一里塚跡。初期の奥州道中が現在より西側を通っていて、公民館付近には「壱里塚」という小字が残されている。日光道中でも明治期に道筋が付け替えられ、国道4号の左側に残された旧道をいくつか歩いたけど、さすがに江戸時代に付け替えられた初期奥州道中は残っていない。ましてや、地名が海道「新田」なので、一里塚すら耕して田んぼにしちゃったんだろうね。
画像26 12:20 海道新田一里塚跡@海道町公民館
画像27 12:25 小林清次郎感恩報コ碑
 白沢街道に戻ると小林家に感恩報コ碑。水不足で貧しかった海道新田村に用水路を開削し、新田開発に務めて村の発展に大きな貢献をした小林清次郎の顕彰碑で、慶応2年(1866)に建てられた。台座に「不」みたいな(き)号水準点が刻まれている。内務省地理寮が明治9年(1876)8月から1年間、東京〜塩釜間の水準測量を実施した時に刻まれたもの。日光道中草加宿の冨士浅間神社神明神社から時々見かけているけど、これからもしばらく見かける予定。
 さて、小林家は屋号を「立場」というそうで、当家が上組の立場跡。ひとつ前の出口の立場跡も民家だった。立場というと公共の休憩施設というイメージがあるけど、茶屋から発展した施設なんだね〜。
 立場を過ぎると往時はまた松並木が続いていたけど、現在の白沢街道は殺風景。しかし、しばらくすると並木が登場。桜を含めていろいろ茂っている雑木並木だけど、それでも往時を偲べて気分が盛り上がるね〜。雑木並木の途中に高林堂。明治18年(1885)創業の老舗なので本店に行きたかったけど、宇都宮二荒山神社にお参りする時は開店前で、オリオン通りを通る時に寄ろうと思ったら忘れちゃった。後で気がついてガッカリしたけど、奥州街道沿いに支店の海道店があってヨカッタ。お八つの桜薯蕷饅頭とお土産に宮のかりまんをお買い物。
画像28 12:55 桜が満開の稚児坂
 しばらくすると桜並木の上り坂で稚児坂。建久年間(1190〜98)に御家人の伊沢家景が奥州総奉行として奥州の任地に向かう途中、この地で同行の子が病気で亡くなりその名が付いた。稚児坂の手前にあるバス停が何故か?「稚ヶ坂」だけど、この辺りで旧河内町(かわちまち)の白沢町に入り、白沢宿はもうすぐ。
画像29 13:05 寂しい台地の上を進む奥州道中
画像30 13:20 白沢地藏堂 石仏いっぱい
 10mほど上ると台地の上。民家が途切れて林の横を通り過ぎる。往時はやはり松並木が続いていたようだけど、台地で田畑もなく、寂しいところだっただろうね。昭和初期の“スタ大地図”にも並木が描かれているけど、周りは広葉樹&針葉樹の記号だらけ。
 白沢歩道橋のある名無し二又交差点で県道125号白沢街道は左に曲がるけど、旧道は真っ直ぐ。満開のコブシや、日光道中でも見た勝善神(馬頭観音)を横目に進むと、桜満開の白沢地藏堂。稚児坂で亡くなった伊沢家景の子を埋葬したところ。境内には古い五輪塔や宝篋印塔をはじめ、お地蔵さまや馬頭観音など、石仏がいっぱい。
 地藏堂から薬研(やげん)を下ると、大きなエノキの下に江戸時代の公衆便所跡。裏に回ると肥桶が置いてある。なるほど、堆肥を確保するための便所だったんだね。屋根がトタンで現代の造りだけど、平成時代の公衆便所ではない。
画像31 13:25 江戸時代の公衆便所跡から白沢宿のはじまり
 『奥州道中分間延絵図』では坂の途中から宿場が始まるので、この辺りが白沢宿の入口。民家の軒下に屋号を掲げてあるのでテンション上がるね〜。
 鬼怒のたまり漬を商う水戸屋を横目に白沢宿交差点を突き当たり…ってゆーか、枡形を左折。右折すると岡本街道で、宿内に岡本街道口バス停がある。『奥州道中分間延絵図』によると、往時は街道の中央に水路が流れていたけど、今は道の両側に移されている。白沢宿〜白河宿の奥州道中十次の中でも、白沢宿は越堀・白坂と並ぶ小っちゃな宿場で、この3宿には市も立たなかった。
画像32 13:35 枡形を左折した白沢宿の風景 350mほど真っ直ぐ
 枡形を左折するとすぐ右手に福田脇本陣があったはずだけど、今はどこなのか?分からない。その代わり?高砂屋太田家(旧白澤病院)に明治天皇御休之所碑が建っている。案内板はないけど、明治9年(1876)の奥羽巡幸&明治14年(1881)の東北・北海道巡幸の際に小休所となっている。鬼怒川を渡るため、明治天皇は白沢宿で馬車から輿に乗り換えたそう。
画像33 明治天皇御休之所碑@高砂屋
画像34 趣のある住吉屋
 白沢宿は新道の陸羽街道(国道4号「奥州街道」)からそれているので宿場らしい街並みを期待したけど、道路改修をしているので古そうな建物は見当たらない。しかし、高砂屋のはす向かいに格子戸のある旧家が残っている。住吉屋で、街道沿いの母屋は大正14年(1925)に建てられたもの。その奥に納屋と石蔵2棟があり、そのうちの1棟が明治28年(1895)のもの。
 白髭神社と白沢駐在所を過ぎると宇加地本陣跡。門柱の横に「本陣」の屋号が掲げてある。その横に「ここは江戸より三十里」のタイトルで、江戸・宇都宮宿、そして奥州道中の各宿場の里程を載せた高札が立つ。往時は本陣の江戸側に高札場があった。うっかり本陣跡を正面から撮るのを忘れて、進行方向斜めからの写真しかない…ガクッ。(>_<) 宇加地家は明治5年(1872)から特定郵便局長を務めたそうだけど、赤い丸型ポストが置かれているのはそのためかな?
画像35 13:45 白沢宿宇加持本陣跡
画像36 突き当たりの井上清吉商店
画像37 北野神社白沢山車収納庫
 宿場を通る旧道は井上清吉商店に突き当たり…ってゆーか、枡形を右折。逆に左の路地を進むと薬師堂があり、境内に宇加地本陣の墓所がある。突き当たりの井上清吉商店は明治元年(1868)創業で、現在の社長は5代目。
 ということで、枡形を右折。九郷半川を渡って北野神社へ。白沢甲部彫刻屋台が市指定文化財だけど、山車収納庫の中なので見学できない。白髭神社の例大祭の付祭として5年に一度巡行されるそうだけど、収納庫が白髭神社じゃなくてこの北野神社にあるのね…。
 『奥州道中分間延絵図』では白沢宿の先で西鬼怒川が鬼怒川に合流していて、旧道は西鬼怒川の手前でヘアピンカーブのように左折しているけど、今は真っ直ぐ。西鬼怒川に架かる西鬼怒川橋が、昔ながらのコンクリート橋でイイね! 橋の右手に「江戸時代の鬼怒川の渡し100m」と記した手作りの標識。『栃木県歴史の道調査報告書』では60mとなっているけど、西鬼怒川橋の下流に西鬼怒川の渡船場があった。ただし、水量が少ない冬春は仮橋を渡っていた。
画像38 14:00 西鬼怒川橋イイね!
 本番当日は気がつかなかったけどGoogleストリートビューを見ると、下流に同じタイプの標識が立っている。「(西)鬼怒川の渡し跡」かも? 100mを確認しないで失敗。しかも、対岸に土道の旧道が残っているのをすっかり忘れて、舗装道路をそのまま直進しちゃった…ガクッ。_| ̄|◯
 気がつかないまま白沢河原バス停…。宇都宮駅と白沢宿をむすぶ路線で、折り返しの終点。開田之碑の後ろに白澤の一里塚址碑がド〜ン。ただし、この場所が一里塚跡というわけではなく、白沢に日本橋から30里目の一里塚があったという記念碑として、平成21年(2009)に建てられた。『奥州道中分間延絵図』では、この先の押切新川と鬼怒川の間に「此所往昔一里塚跡之由 字三本杉」と記されている。
画像39 14:05 白澤の一里塚址碑
 周りが一面の田んぼで河原の感じがしない白沢河原。このまま進むと鬼怒川に出るけど、押切新川が流れる十字路を左折。北上すると右手に杉木立のある民家。杉が5本もあるけど、『奥州道中分間延絵図』が云うところの「三本杉」じゃね? ということで、こちらの杉木立を白沢一里塚跡とします。\(^-^)/
画像40 14:15 俺の白沢一里塚跡(笑)
 “俺の白沢一里塚跡”(笑)から鬼怒川の土手に移動して、ひたすら北上。20分ほどすると、あれ?阿久津大橋に出ちゃった…。土手を進めば「鬼怒川の渡し跡」の標識があるのかと思ったら、そんなものはないのね…ガクッ。il||li _| ̄|◯ il||l
画像41 14:20 鬼怒川の土手
 土手に上ったらすぐ右手に鬼怒川に下りるスロープがあったので、そこを下りるべきだった。帰宅後に“スタ大地図”を見ると、そのスロープって昭和初期では県道!ガ━(゚Д゚;)━ ン !!! う〜む、残念。フォロワーさんから鬼怒川の渡し跡の標識をリプライしていただき確認できました。トホホ…。
画像42 14:40 鬼怒川の河原
 このままでは阿久津大橋を渡れない!河原に下りないと気が済まない!ということで、14:40鬼怒川の河原に下りて、奥州道中白沢宿の巻はおしまい。いろいろと失敗が続いて「ガクッ」がいくつあったかなぁ…。もうヘロヘロ。(^-^;

おまけ
所要時間 5時間45分
今日1日の所要時間 9時間00分
万歩計®の歩数(今日1日の歩数) 22,941歩(36,786歩)
寄り道含めたGPSの距離(今日1日の距離) 18.3km(28.8km)

Vol.17 宇都宮宿 奥州街道ヘロヘロ旅 MENU Vol.19 氏家宿
TOP
Copyright (C) 2017 TORAZOU, All Right Reserved.