とらぞうのおかち日記「1歩2歩散歩」SPECIAL
 2001年夢中の旅 
東海道五十三次


Vol.48
〜坂下宿→土山宿〜
9.7km

画像2004年 9月12日(日)
昔は立場だったのに、今はひっそりと佇む町指定史跡の筆捨山。 岩が少しゴツゴツしているけどフツーの山。 付近に民家があるので立場茶屋の子孫かな? 土木工事のおかげで、山深い所だけどてくてく歩ける。

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お薦めの猪鍋で舌鼓

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08:00 式内社なのに…

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08:05 久しぶりだよ石畳

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08:20 ここまで上るの大変

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08:35 万人講常夜燈

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08:45 鳥居が埋もれている

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09:25 昔の道と未来の道

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09:30 山中一里塚跡

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09:55 間の宿・猪鼻

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10:15 蟹坂古戦場跡

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10:20 できる!海道橋!

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10:35 青銅製の二の鳥居

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10:40 田村神社本殿

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常夜灯にいた蛙

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鈴鹿峠の田村神社跡

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10:50 道の駅あいの土山

 一泊お世話になった旅籠鈴鹿峠(関町坂下722/0595-96-2012)は、旅館・民宿というより、釣り堀のある“合宿所”みたいな雰囲気。 山深い鈴鹿峠で食べる猪鍋は格別で、宿泊のために関宿や亀山宿に戻らなくてイイ!ので、とらぞうのお薦め!
 しかし、残念ながら一人旅の宿泊はNG(お一人様だと赤字だそうです)&自販機がない。 坂下宿で自販機がなくなるので当てにしていたんだけど、空のボトルに水を入れてもらう。

 7:50片山神社入口をスタートして、杉林の中に入ると元坂下宿。 慶安三年(1650)に洪水の被害にあったために現在の場所に移ったそうだけど、左手の川は細い渓流だよ。
 正面に片山神社。 式内社だけあって石垣が立派なので、社殿も立派だろうと石段を上ってみると…社殿がない! 足下に焼け焦げた跡があるのでショック。 見上げると真上にR1が走っているので、煙草の投げ捨て?それとも放火?
 後日関町の消防署に問い合わせたら、平成十一年(1999)12月25日に「不審火のため焼失」だって。 焼けたら元には戻らない。

 旧道に戻ると、左手に常夜灯が4基並び、短い区間だけど石畳がある。 R1をくぐり、芭蕉句碑のある鈴鹿峠入口から息を切らしながら階段を“登る”。 左手にコンクリート製の馬の水のみ鉢
 こんな急坂じゃあ参勤交代できないよ!と思ったけど、険しい区間は意外と短く、すぐ平地になり鈴鹿平…じゃなくて鈴鹿峠。 官道としての歴史は古く、仁和二年(886阿須波として開通した。

 左手に田村神社跡。 石柱の周りに瓦の破片が散らばっている。 最近移転したの? さらに左に進むと県指定天然記念物の鏡石。 山火事の影響でツルピカではなくなったそうで、どの部分が「鏡」だったのか分からない。 恐る恐る崖下の景色を覗いてみると、足下に蛇のようにウネウネとR1。 落ちたら死んじゃう。 もし土木工事の恩恵がなく、R1の歩道がなかったら、やっぱり難所だね。

 旧道に戻って、茶屋跡を横目に杉林を抜けると、一面の茶畑。 左手に三重・滋賀県境の標識。 伊勢国・近江国の国境でもある。 険しい三重側と、緩やかな滋賀側の景色の違いが面白い。 土の道は歩きやすいけど、鹿のウンチに気をつけないと。
 右手にデッカい万人講常夜燈。 江戸時代中期に金毘羅宮参りの常夜灯=灯籠として建立されたもので、横を“通ろう”とすると蛇の抜け殻があったりして、自然がタップリ。 …。 並びには平成四年(1992東海道ネットワークの会が植樹した若い松。

 「山中」の地名の通り、“山の中”を歩くと思っていたけど、下り坂の先でR1に合流すると、すぐ民家があるのであまり寂しくない。 しばらくR1の左側で歩道歩き。 右手に半分埋もれた鳥居常夜灯を発見したので、R1右側に走る! よい子は真似しないで!
 9:05今度は左手に十楽。 R1左側に走る! よい子は…。 境内に天保三年(1832)製の常夜灯。 トイレはキレイだけど本堂の屋根が塗炭なので寂しい…。 10分休憩。

 十楽寺を出て、走って右側に戻ったのも束の間(よい子は…。)、山中交.で左側に移り、田んぼの風景を撮る。 今度は右手に旧道の入口があるので右側に走る! よい子は…。 旧道入口の右手に馬子唄歌碑。 そして山中の集落。 集落のはずれに未来の道?第二名神土山橋が架かっているのでスゴい風景。

 R1との合流地点に、山中一里塚のモニュメントや櫟野観音道道標・馬子唄歌碑が並んでいる。 道標の案内板では旧東海道がR1を横切っているので、また走る! よい子は…。 「左に旧道」と言いたいけど、社宅?を横目に坂道を進むと…何と!草竹コンクリート工業屋の敷地に入ってしまった! 道標の案内板にあるホントの旧道跡はお勧めできない。 閉まっている門の脇をよじ登って脱出! よい子は…。 元いた右側の歩道に、また走る! よい子は…。

 この先旧道は、R1から右手に少しずつ離れていくんだけど、消滅している。 猪鼻交.で右折。 車道を下り、旧道上にある岩石採取会社三興屋向かいの丁字路を左折すると、旧道につながり猪鼻の集落。 右手に明治天皇が休んだ旅籠中屋跡があり、はす向かいの民家は近江屋の屋号を掲げている。 何だ何だ?まだ土山宿ではないので間の宿か? 急坂を上ってR1に合流。 R1は両側の山を開削しているので、かなり険しい山道だったんだね。

 R1が下り坂になると、正面に屋根ギッシリの土山宿が見える。 その先にはお椀を伏せたような、水口宿の古城山(大岡山)まで見える。 右に旧道。 白川神社に古くて太くてデッカいシイノキ。 坂を下って高尾金属工業屋を抜けると、天文十一年(1542)山中城主山中秀国と伊勢国司北畠具教が戦った蟹坂古戦場跡

 真っ直ぐ進むと田村川。 工事の看板を横目にそのまま進むと、工事の下準備なのか?草を刈ったばかりの様子。 後日土山町に問い合わせたら、本来は下水道工事なんだけど、ついでに?下水管の上に橋を通すそうだ。 YATTA!
 これからの旅人はイイなぁ。 来年の平成十七年(2005)には、迂回しないで新しい橋(海道橋)を渡って田村神社に行ける。 土山町は市町村合併で来月甲賀市になってしまうけど、最後にイイ仕事しているね〜。 でも、おらたちは迂回…。

 迂回してR1の田村橋を渡ると田村神社社叢。 土山町観光協会のデッカい案内板があるけど、手前の街路灯との隙間がないので、案内がよく見えない。 もぅ、褒めたばかりなのに…。
 右折して一の鳥居をくぐった参道には文政十二年(1829)製の常夜灯が4本。 青銅製の二の鳥居右手が高札場跡で、鳥居の前にある常夜灯は安政三年(1856)製。

 今日はいっぱい悪い子だったので、しっかりとお参りする(ってゆーか、R1に横断歩道を設置してほしいな)。 さっき鈴鹿峠の「田村神社跡」を見てきたけど、思ったよりも広くて立派。
 社伝によると、元文四年(1739)焼失した本殿が再建されたというので、移転したのは最近のことじゃないんだね。

 後日田村神社に「田村神社跡」との関係を問い合わせたら、関係がないので分からないんだって。 ガーン! 社伝によると、弘仁三年(812嵯峨天皇の勅により二子嶺坂上田村麻呂を祀ったのが始まり。 創建10年後の弘仁十三年(822)に現在の場所に遷って、元々あった古社と合祀したそうです。
 じゃあ「田村神社跡」はいつ“跡”になったの?と、三重県神社庁に問い合わせたら、明治四十年(1907)焼けてしまった片山神社に合祀されている! ええ?田村神社の系列社じゃないの?と、さらに滋賀県神社庁(断られた!)、甲賀市(合併しちゃった!)に問い合わせたら、合祀という記述だけで他に資料がなく、理由も勧請先も分からないそうなので、残念…。
 『甲賀郡志』によると、田村川上流で間の宿・猪鼻の北にある火頭子山頂に「田村将軍の霊を祀りしが後世土山町」に遷すとある。 また片山神社の由緒には、元は「三子山中央の峰に鎮座」とある。 阿須波道開通前の東海道は、土山町の南にある甲賀町を流れるに沿う“加太越え”だったそうだけど、阿須波道の元ルートとして、猪鼻から笹路に沿う“三子越え”があったのね。
 鈴鹿峠は人里から遠く、官道が開通する前も後も山賊が多い。 坂上田村麻呂の霊に交通の安全を願って、峠にも田村神社が創建され、片山神社も三子山から遷ってきた。 険しい山道で大変!ということだけでなく、“鈴鹿越え”は命がけの難所だったんだね。

 ふぅ、「田村神社跡」でスゴい寄り道をしてしまった…。 横浜在住のおらが“田村神社の謎”や“古阿須波道”を調べるのも何なので、詳しくは地元の方にお任せします。(^_^;
 坂下宿の巻は他のページに比べると、問い合わせの数が多い。 おらのサイトは多くの方に助けられて(一部の団体を除く)作成されています。 この場を借りて御礼申し上げます。m(_ _)m

 旧道兼参道を戻り、北土山歩道橋でR1を渡ると、道の駅あいの土山。 駅舎の横からカラー舗装されているので、10:50アスファルトとの境目で坂下宿の旅は終わり。 さあ、昼飯だ!

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おまけ
所要時間(休憩除いた正味時間)3時間(約2時間50分)
万歩計の歩数13,735歩
喜多さんの歩数12,574歩
経費
お食事処鈴鹿峠宿泊料7,000円

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