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Vol.04 京街道 その1

(大谷淀 18.1km)


2005年 8月17日(水)

 2004年10月に旧東海道を踏破して早10カ月。東海道って五十三次と思っていたら、ホントは大阪まで4宿あって「五十七次」? へぇ、それなら続きを歩きた〜い!ということで、『京街道』を教科書にして、大津→大阪を歩きます。し…しかし、京都山科で衝撃の事実が…。

 京阪電車大谷駅を下車して東海道を京都方面に進むと、跨線橋付近の線路の信号に「大谷墓道」。出発地点には追分駅の方が近いけど、東海道歩きの時に見つけた京阪の標識「一里町」の撮影がお目当て。しかも、大津市街で車と一緒に電車が信号待ちするのを体験したくて、わざわざ膳所駅で東海道本線から乗り換えている。もの好きなことです。(^-^;
画像01 一里町の標識
 国道1号の右側を歩く。歩道はない。通勤ラッシュの時間帯で、車が途切れなくビュンビュン走っているのでおっかない。特にバイクが路側帯を走って来るのでかなりコワい。途中で国道1号を横断できるという記憶があったけど、心細いので車が途切れた時に左側の歩道に走る。しかし、心配しなくても名神高速道路を過ぎたら旧道の入口に歩道橋が…。
 久しぶりの髭茶屋追分。京都府と滋賀県との境にして、京都市山科区と大津市との境。レプリカの柳緑花紅道標には「ひたりはふしみみち」「みきは京みち」と刻まれている。左の府道35号が京街道で伏見道で五十七次の東海道。右が五十三次の東海道。しかし、左の道は京街道でも伏見道でも東海道五十七次でもなく、地元では奈良街道と呼ばれているみたい。
画像02 8:35 髭茶屋追分
 8:35スタートすると、緩やかな下り坂。この付近は牛尾山道道標2基・蓮如上人御塚道道標1基と、短い区間に道標がいっぱい。音羽地下道で国道1号をくぐって、ミニストップ茶屋でPET飲料を購入。山科大塚交差点の大塚地下道で国道1号をくぐると、東海道新幹線の手前に宇治道道標。「ひだりおゝつみち」「みぎうじみち」と刻まれている。
画像03 9:05 宇治道道標
画像04 9:10 皇塚
 丁字路に「大塚」という地名の由来となった皇塚(おうつか)。円墳らしいけど、石碑と祠があるだけで、案内板はない。道が狭い割に車が多く、渋滞しているので遠景は撮れず、アップの写真だけ。(>_<)
 岩屋神社鳥居のはす向かいにデッカいシイ。これが一里塚だと思ったら、違うようなので先を進む。だんだん名神高速道路が近づいてくる…。もう過ぎちゃったのかと思ってドキドキしていたら、右手に市登録史跡大宅(おおやけ)一里塚。ホッ。
画像05 9:30 大宅一里塚 振り向いて撮った風景
 名神高速をくぐると、すぐ左折して寄り道。大宅廃寺跡。しかし、大宅中学校の裏にある歓喜光寺まで行ったけど、見当たらない。(>_<) う〜む、残念。あきらめて旧道に戻る。後日調べたら、大宅廃寺跡の標柱は大宅中の校庭にあるんだって…ガクッ。
 山科警察署のある丁字路交差点を右折すると小野の家並み。この右折した道は相変わらず府道35号。寄り道のため丁字路交差点をまた右折。府道117号を進むと市指定保存樹の葛籠尻(つづらじり)の小野カヤがある。
画像06 9:55 「百夜通い」ゆかりのカヤ
画像07 カヤ(榧)の実
 平安時代、小野小町を慕う深草少将が、小町のもとに百夜通う誓いをして、毎晩カヤの実を届けたそう。しかし、あとひと晩で恋が成就♥というところで、99夜目に亡くなってしまった…という伝説「百夜(ももよ)通い」ゆかりのカヤ。少将の菩提を弔うために、小町が小野の里にカヤの実を蒔いたそうで、このカヤがそのうちの1本ということらしい。
画像08 10:05 ポツンと旧東海道線山科駅跡
 そのまま府道を進んで、更に寄り道。名前のない交差点を渡って、名神高速道路沿いに進むと、小野小学校の手前に旧東海道線山科駅跡がポツン。旧山科駅は明治12年(1879)に開業。京都側の東山トンネル&大津側の新逢坂山トンネルが完成した大正10年(1921)に東海道本線が現在のルートに変更され、山科駅も現在の地に移された。名神高速の山科区内のルートは当時の東海道本線の跡。
 戻ってさっきの小野カヤの木陰で10分休憩。横に田んぼがあってのどか〜。
 旧道に戻ると隨心院。正歴2年(991)の創建。小町化粧の井付近が小野小町邸跡ということで、さっきの「百夜通い」の舞台。文化財が多数あるので、詳しくは地元の方にお任せします。(^-^;
画像09 10:20 小野小町歌碑
画像10 小町化粧の井
 後日図書館から『東海道分間延絵図』の大津追分〜大坂の分を借りてみたらビックリ! 何と!東海道は隋心院の角にある小野御霊町交差点の1つ手前の十字路を右折して、西に進んでいる!(◎o◎) 府道35号。『京街道』では大阪を出発すると伏見宿を“横断”して宇治方面に向かっているので、てっきり東海道は奈良街道を進むものだと思っていた。しかし、ホントの東海道は伏見宿を“縦断”…ガクッ。il||li _| ̄|◯ il||l 責任者出せー!って感じ?
 しかし、大津宿〜伏見宿は奈良街道と伏見街道の2通りあるというので、何とか帳尻合わせ。う〜む、今回「東海道五十七次」を歩いたつもりが、「京街道」歩きだったということとなりました。(>_<) しかし、大阪に向かっているので、「京街道」というより、ホントは「大阪街道」じゃないの?ってのはナイショ。(^-^;
画像11 10:50 醍醐天皇陵
 当日はそんなこととはつゆ知らず、奈良街道を東海道を思って、てくてく進みます。隋心院を出ると伏見区。寄り道のために醍醐山ノ内交差点を左折。住宅地の中に木が見えたので左折したら、今寄ったばかりの隋心院…ガクッ。寄り道で迷うなんて…もう最悪! 目指すは陵なので、こんもりとした森を目印に、住宅地の奥へと進む。住宅地の案内板を見ると、陵を中心にしてビッシリと住宅が並んでいる。やっと着いたものの、延長8年(930)に崩御した醍醐天皇に案内板はない。写真1枚のために時間を食ってしまった…。
 弘法大師独鈷水の石標を横目に、左に旧道。醍醐新町交差点の手前で合流すると、格子戸の民家が現れる。醍醐の家並みがイイ感じ。左手の松並木には蓮の花も咲いていて、さすが世界遺産の醍醐寺。貞観16年(874)に創建された。
画像12 11:10 蓮の花が彩りを添える松並木
 境内に入るとまず桜並木豊臣秀吉が慶長3年(1598)に花見をしたというので、おらも満開の境内を見てみたい。西大門(仁王門)を過ぎると楓並木。今は空いているけど、春や秋はメチャ込みなんだろうね〜。秀吉の命によって計画され、没後の慶長5年(1600)に豊臣秀頼によって再建された国宝の金堂や、天暦5年(951)に完成した国宝五重塔を見学。まだまだ文化財が多数あるので、詳しくは地元の方にお任せします。(^-^;
画像13 国宝の金堂
画像14 国宝の五重塔
 木陰で10分休憩。旧道歩きで何が楽しいかって、見知らぬ道をトボトボ歩いて醍醐寺のような神社仏閣・名所旧跡に出会うのが醍醐味。…。しかし境内は禁煙なので、煙草を吸いたい喜多さんには休憩にならなかったみたい。(^-^;
画像15 11:55 振り向いて善願寺
 醍醐寺向かいの畑山商店屋でPET飲料を購入。右カーブすると善願寺。デッカいカヤの生木に榧の木不動尊が彫られているそうだけど、何故か?境内に入れず、見られなかった。(>_<)
 旧道はグニャッと直角に曲げられ府道36号に合流。商店が並んで賑やか。交通量が多い割りには歩道がないので、信号待ちの車の脇を歩くのは窮屈。この付近には石田一里塚があったそうだけど、跡を示すものはない。地図に「一里塚ハイツ」ってな長屋があるので、“跡”の代わりに写真を撮ろうと思っていたけど、地図をうっかり印刷し忘れて、また余計なことで時間を食ってしまった…。(^-^;
 石田大山交差点に日野法界寺道標親鸞聖人日野誕生院道標。遠いと思ってスルーしちゃったけど、おらの地元:戸塚にまで訪れている親鸞聖人の生まれ故郷なので、こちらは寄ればヨカッタな〜。
画像16 12:20 石田大山交差点に建つ2つの道標
画像17 揚げ出し豆腐のとろろ御膳ランチ
 定規を引いたような直線の旧道を進むと宇治市。地名が「六地蔵」! そして「町並」! 感激して?長谷川栄製茶場の駐車場でPET茶を買って10分休憩。
 12:50六地蔵駅前で賑やかなので、昼食だ! 六地蔵町並交差点にはとんかつ屋・ラーメン屋が並んでいる。こんな暑い日に熱いものは…ふぅ。もう少し進んで、京都宇治とろろ家(六地蔵奈良町74-1 京都醍醐プラザホテル1F)茶屋。1,350円の揚げ出し豆腐のとろろ御膳がランチだと1,100円でお得。(^-^;
 50分の昼休憩で、六地蔵町並交差点を出発。JR奈良線をくぐると、旧道は右カーブして六地蔵宿。六地蔵駅北側は再開発されて殺風景だったけど、南側はイイ雰囲気。右手に煎茶の元祖永谷宗園茶店。煎茶は永谷義弘(宗円)が元文3年(1738)に青製煎茶製法を考案したのが始まりで、「お茶づけ海苔」で有名な、あの永谷園の実家…ってゆーか、往時は山城国宇治田原郷の湯屋谷にあった。
画像18 13:40 永谷宗園茶店
画像19 六地蔵札の辻の道標
画像20 醍醐一言寺道標
 永谷宗園茶店の脇に六地蔵宿立場高札場跡。地名も六地蔵「札ノ辻」町。髭茶屋追分から歩いてきた奈良街道は、この札ノ辻で左折するのでサヨナラ。辻には天保3年(1832)製の六地蔵札の辻の道標が置かれていて、右面に「右 長阪地蔵/うち/すく大津 道」、左面に「左 長阪地蔵 うち/すく 伏見舟乗ば みち」と刻まれている。長坂地蔵は南東に4kmほど離れた長坂峠付近にあったお地蔵さまで、何故か?現在はすぐ近くの正覚院に安置されている。「すく」は「“すぐ”近く」のことではなく、「まっ“すぐ”」のことで、東海道の四日市宿にもあったね。
 山科川に架かる人道橋六地蔵小橋を渡って、“すく伏見”へと進む。対岸に、電柱に寄りかかっている?指差し道標醍醐一言寺(いちごんじ)道標。正面に「☞だいご一言寺是より十七丁」、左面に「左 おぐりす道」と刻まれている。
 六地蔵交差点から大善寺に寄り道。大善寺の前に京道伏見道道標が建っている。正面に「みき京みち」、左面に「ひたりふしみみち」、右面に「ひたり わうはく/うち 道」と刻まれている。
画像21 13:55 京道伏見道道標
画像22 大善寺の六地蔵
 そして、大善寺。境内の六角堂に安置されている木造地蔵菩薩立像が国指定重要文化財。嘉祥2年(849)小野篁が1本の桜から刻んだ6体の地蔵菩薩の1体。残りの5体は保元2年(1157)後白河天皇によって、京の街道入口に建てられた六角堂に六地蔵がそれぞれ分置された。東海道を歩いた時、六地蔵の1つ、山科の徳林庵で六角堂の山科廻地蔵をお参りしたけど、大善寺が六地蔵の根本なんだね。ひっそりとしているけどスゴいことだ。
 地名にもなっているのでスゴい…と思ったら、さっきの山科川からもう伏見区で、ここは桃山町西町。ええっ!六地蔵に六地蔵はないんだ!(◎o◎) う〜む、しかも桃山町の東のはずれなのに、西町…。地名ってよく分からん!
 しばらくすると右に旧道。丁字路角に名もないお地蔵さまが祠に納められ、大事にされている。車の往来もなく、格子戸の家並みがイイ感じ。伏見坂を下ると府道7号に合流。あ!明治天皇に寄り忘れた!(>_<) 途中車道を横切ったけど、気がつかなかった。時間が押しているので、もうパス。
画像23 14:05 桃山町新町の街道風景
 しばらく府道の歩道歩き。右手は崖で奥行きがないわりに、立ち寄る予定だった西運寺(狸寺)・橘俊綱山荘跡の入口が見当たらない…。(>_<)
 観月橋(かんげつきょう)北詰交差点に着くと、立体交差でずいぶん大都会だな〜。歩道橋と京阪観月橋駅の改札口の間に、窮屈そうな指差し道標京・大和街道道標。「☜きやうかいたう」「☞やまとかいたう」と刻まれている。
画像24 14:30 京・大和街道道標 ↑このゴミ袋って…
 観月橋は、文禄3年(1594)伏見城築城の際に、豊臣秀吉の命で大友豊後守宗麟によって架けられたもので、豊後橋と呼ばれていた。さらに、今はなき巨椋(おぐら)を南北に貫いて、大和街道が新設された。大和街道は、さっきの六地蔵で分かれた奈良街道と宇治市の南で合流するので、大和街道って奈良街道なんだね。
画像25 観月橋(豊後橋)から月観館を臨む
 ようやくこの伏見宿から、逆コースだけど、『京街道』を参考にして歩けるのでホッ。観月橋から月観館を眺めてから国道24号を北上。上り坂付近に木戸があったようだけど、標柱も案内板もない。
画像26 14:40 夏草が伸びる常盤就捕処
画像27 伏見奉行所跡
 伏見合同宿舎の5号棟に、ひっそりと常盤就捕処(ときわしゅうほのところ)。平治の乱で源義朝が永暦元年(1160)に敗死したため、愛妾である常盤御前牛若をはじめ3人の子供を連れて大和国に逃亡。しかし、母親が捕らえられたと聞き、六波羅に自首しようとしたところ、平氏に捕らえられた。
 そのまま向かいの車道に出ると、市営桃陵団地の入口に伏見奉行所跡。その向かいに伏見工兵第十六大隊跡。奉行所跡に陸軍の部隊が置かれたんだと思うけど、どちらも案内板がないので、詳しいことは分からない。
 旧道は桃陵団地を横切って西に進むけど、御香宮(ごこうのみや)神社に寄り道。国道24号に出て御香宮前交差点を左折。デカい表門は元和8年(1622)伏見城大手門を移築したもので国指定重要文化財。慶長10年(1605)徳川家康によって建立された本殿も国の重文。府指定文化財の拝殿でお参りして、伏見城跡残石や市登録天然記念物のソテツを見学。
画像28 14:55 御香宮神社表門
画像29 ありがたい御香水いただきます
 御香宮は、元は「御諸神社」という社で、貞観4年(862)境内から香りのイイ清水が湧き出したとさ。その水を飲むと病気が治り、様々な奇跡が起こったので、「御香宮」と名付けられた。そんなありがたい御香水をいただこうと、空のPETボトルを手にして並んでいたら、先に並んでいる地元の方が、「観光の人は先に汲んでエエよ」と、先に進めてくれました。\(^-^)/ ありがとうございます! おおきに! 昭和60年(1985)旧環境庁の「名水百選」に認定されているだけあって、冷たくて美味し〜い。
 桃陵団地に戻って近鉄京都線の手前を右折。次のお目当ては…ない! あれ?御香宮神社の前の道に出た。う〜む、近鉄のガードをくぐって次の路地を曲がると、お目当ての老舗が向かい合っているのでホッ。『京街道』の地図が間違っている。料亭魚三楼の格子戸に残る慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いの弾痕をチェックしてから、寛正2年(1461)創業の総本家駿河屋(京町3-190)で古代伏見羊羹を購入。
画像30 15:30 生々しい魚三楼の弾痕
画像31 クーラーの効いた駿河屋で水羊羹を試食
画像32 15:55 四辻の四つ当り
 旧道に戻って京阪本線の踏切を渡ると四辻の四つ当り。東西南北どこから来てもここに突き当たるということだけど、フツーの枡形…。どうしてこんな名前なのか?
 そして、四辻の四つ当りから1つめの十字路が、小野御霊町交差点の1つ手前の十字路で別れた「東海道五十七次」との合流地点。歩いている時は知る由もなかった。『京街道』は大阪を出発すると伏見宿を“横断”して宇治方面に向かっているのだけど、伏見宿内の東海道の道筋については述べていない。四辻の四つ当りで誰かに八つ当たりしたい。(>_<)
 天正18年(1590)創建の西岸寺(さいがんじ)。境内には、油をかけると願いが叶うという油懸地蔵と、松尾芭蕉が貞享2年(1685)に訪れた時に詠んだ句碑がある。
画像33 16:00 油懸地蔵
画像34 芭蕉句碑「我衣に ふしみの桃の しづくせよ」
 交差点の角に電気鉄道事業発祥の地。明治28年(1895)京都駅からこの油掛通までの約6km間に日本最初の電気鉄道(路面電車)が開業した。この交差点を左折すると寺田屋方面に行くけど、今日は伏見宿に泊まるので、旅籠に着いてから散策することにする。
画像35 16:05 電気鉄道事業発祥の地碑
画像36 16:20 伏見みなと公園でホッと一息
 橋を2本渡る…と思ったら、行き過ぎ! 1本目の阿波橋まで戻り、酒の大崎商店屋横の路地に入る。阿波橋は伏見港の4カ所ある船着場の1つ。角倉橋を渡ると左手に伏見みなと公園。ホッとして角倉了以水利紀功碑の横で10分休憩。了以は、慶長19年(1614)に高瀬川を開削して、京都〜伏見間の水運を開通させた人物。
 宇治川派流濠川(ほりかわ)沿いの遊歩道を進む。肥後橋・京阪三栖踏切をくぐり、公園の広場から車道に出る。京都外環状線をくぐると車通行止め! 三栖閘門(みすこうもん)を横目に、道あるの?と思いつつ進むと、宇治川
画像37 16:40 草ぼうぼう…獣道の京街道
 さて京街道はというと、土手の獣道…。道あるの?と思いつつ進むと、歩行者用の小橋を渡って土手の舗装道路…ってゆーか、秀吉が築いた淀堤。今は府道124号で車が行き交い、緊張感の中を歩く。
 しばらくすると国道1号「京阪国道」。片側2車線で広い道路なのに、信号はおろか横断歩道がない! 右手に横大路交差点が見えるけど遙か遠くで、左手は宇治川大橋で交差点はない! しばらく車が途切れるのを待っていたけど、なかなか途切れないので橋の下を進むことにする!
画像38 17:00 難所の国道1号「京阪国道」
画像39 宇治川大橋をくぐります トホホ
 宇治川大橋をくぐると生い茂った草の下が凸凹のブロックなので、歩きづらい! 土手に戻るのに斜面のブロックが滑りやすいので、危険があぶない! これだけ歩行者を無視した道路は珍しい! 国交省や京都府は何とかしてっ!(`ヘ´)
画像40 17:10 往時は千両松と称えられた淀堤
画像41 17:35 戊辰役東軍戦死者埋骨地碑
 それにしてもトボトボと淀堤歩き。昔は千両松と称えられた松が生い茂っていたそうだけど、工場ばかりで殺風景…。京阪千両松踏切を渡ると京都合砕屋に自販機。御香水がもう空になっているのでありがたいことです。
 民家が現れると、JRAの広〜い駐車場で10分休憩。ふぅ。この辺りは慶応4年(1868)に起こった鳥羽伏見の戦いの戦場だったようで、駐車場のはずれに戊辰役東軍西軍激戦之地。そして戊辰役東軍戦死者埋骨地碑が建っている。合掌。
 だんだん住宅が密集してくると右手に淀小橋跡。はす向かいの路地を入るのが旧道だけど、真っ直ぐ進んで寄り道。六差路の納所(のうそ)交差点を横断して、GS(エッソ)の横を進むと唐人雁木跡。橋の跡といい、朝鮮通信使の船着場(雁木)の跡といい、全然面影がないね〜。
画像42 17:45 淀小橋跡
画像43 17:50 唐人雁木跡
画像44 18:15 淀古城跡
 そのまま進んで、橋から右を見ると納所小学校。次の淀古城は納所小の奥なので、間違えたと思って引き返す。府道13号に出て散歩のおじさんに尋ねると、この付近は「城堀」という地名なので、さらに先ではないか?とのこと。しかし、府道13号を進んで路地に入ると、どんどん遠くなる! いったん小学校まで戻ると、ちょうど帰宅する先生が! 尋ねてみると、橋の所で間違えたと思った道は、実は正しかった…ガクッ。
 元に戻って、橋の先に妙教寺。天正17年(1589)に豊臣秀吉が古い城を改築して淀殿の御殿とした淀古城跡で、慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いで本堂に砲弾が落ちた戊辰役砲弾貫通跡でもある。碑はあるけど、どちらも案内板はなく、ひっそりとしている。何だか苦労した割に充実感がない…。しかも、またも寄り道で迷子になり最悪のパターン。(>_<)
 淀小橋跡まで戻る。スーパーマーケット・ツジトミ屋の裏の砂利道を通って、やけに広い府道125号を横断すると淀駅。18:30ここで本日の旅はおしまい。
画像45 18:30 京阪電気鉄道京阪本線淀駅
 淀駅の右手に淀新城跡。元和9年(1623)江戸幕府より淀藩入封を命じられた松平定綱によって築かれた城で、淀殿の淀古城とは別のもの。石垣&堀が残っている。しかし、駅前なので放置自転車がいっぱい。自転車をかき分けて城跡を散策。  
画像46 淀新城の石垣&堀
画像47 與杼神社の境内には焦げ跡が!
 淀新城跡には式内社與杼(よど)神社が鎮座。元は桂川対岸の乙訓(おとくに)郡水垂(みずたれ)村(現在の淀水垂町)に鎮座していた古社で、『東海道分間延絵図』では「淀姫大明神」となっている。明治35年(1902)桂川河川敷の拡幅工事のため、この地に遷座した。当社では本殿&拝殿の2棟が国の重要文化財に指定されていたけど、昭和50年(1975)花火遊びの火で、何と!本殿が全焼! 重文は拝殿だけとなる。焼けたら元には戻らない。(>_<)
画像48 キザクラカッパカントリーでカッパのシュウマイ
 今夜お世話になる旅籠は旅館ちとせ。淀駅から中書島(ちゅうしょじま)まで一駅戻る。宿に着いてから散策しようと思っていたけど、予定より遅くなってしまったのでもう無理。宿で一風呂浴びてから、大正14年(1925)に創業した黄桜酒造の直営店キザクラカッパカントリー(塩屋町228)茶屋で晩食。おらは日本酒飲めないんだけどね〜。(^-^; 往復で横切った濠川には灯籠の明かりが灯っていてイイ感じ。明日のために早く寝ればイイものを、何だかんだと0時を過ぎてしまった。しかも、足にマメのコドモができたのに、手入れをしないで寝入ってしまって、さあ大変!(+_+)

おまけ
所要時間(休憩除いた正味時間) 9時間55分(8時間25分)
万歩計®の歩数 41,829歩
喜多さんの歩数 37,897歩
とらマップ

1歩2歩散歩 MENU Vol.05 京街道 その2

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